夏ー青葉くんの死

 今まで以上に勉強に力を入れなさいと周りの大人が幾度となく告げていく。それに従う人もいれば、従わない人もいた。ぼくはといえば、なんとなく続けていた受験勉強に嫌気がさしていた頃だ。目標がないから続けられないのだ、目標を持てと、かつて自分に見合った大学を目指せばいいと言っていた人が言った。季節が変わるように、人が思うことも変わるのだと、青が目立ち始めた桜の木を眺める。

 昼の日差しに包まれた桜の木の根元では、青葉くんが眠っていた。閉じられた瞼の下に隠された黒曜石の瞳は今、何を思っているのだろうか。彼の瞳は目標を見据えているのだろうか。きっと青葉くんのことだ。目標などすぐに乗り越えてしまうのだろう。そこまで考えて、ぼくは青葉くんから目をそらし、机の上に広げたノートや教科書とにらめっこをすることにした。

 ぼくが青葉くんなら、こうして教科書とにらめっこする必要もなかったのだろうか。

 放課後、運動部に混じってグラウンドでボールを蹴る青葉くんがいた。

 勉強をせずとも受験は楽々であるということか、それともただの息抜きか。どちらにせよ青葉くんにしか知り得ないことだ。ぼんやりと彼を見ていると、不意に青葉くんが顔を上げ、目が合った。久方ぶりに合った視線はすぐにはそらされず、互いのはにかみを生んだ。

 青葉くんの友達がボールを蹴ると、青葉くんの視線がずれ、ボールを追っていた。ぼくもそれに倣うようにボールを追ってから、手元の教科書に視線を戻す。しかし青葉くんの表情が頭から離れず、集中できなくなったので勉強を放り出して帰宅する。

また時が経ち、夏休みに入った。皆が受験にも本腰を入れ始め、夏期講習や予備校に行くのだと幾人が意気込む。ぼくは大してやる気もなく、塾や予備校に通うお金も余裕もないので学校の夏期講習に参加することにしていた。

 夏期講習はクラスに関わらず学年の参加者全員で受けることになっている。

 少し早めに教室へ向かうと、すでに青葉くんが椅子に座っていた。

 ガラリと大きな音を立てたドアに、青葉くんが振り返って目が合う。彼はぼくを見ると笑みを浮かべ、「夏期講習がんばろうな」と声をかけてくれた。ぼくは驚きながら、うん、と小さく返事を返し、青葉くんとは離れた席に腰掛ける。

 初めてのような会話も、すぐに消えて無くなった。ここでぼくが社交性を持っていれば会話が弾んだだろう。だがぼくには、憧れの青葉くんと会話する術など持ち合わせてはいない。

 ちらりと青葉くんを盗み見ると、青葉くんは笑みを浮かべたまま、ぼくを見ていたが、大して気に障ったような素振りは見せなかった。

 夏期講習では黙々と勉強に励み、着実に成績を伸ばしていけるように努力した。たまに青葉くんに話しかけられることがあったが、初めの頃のようにぼくは相槌しか打つことができなかった。




 ある日の夏期講習の帰り道のこと。珍しく青葉くんが一緒に帰ろうと誘ってくれた。ぼくは二つ返事で頷き、帰路を共にする。

 相槌しか打たないぼくと青葉くんに会話らしい会話ができるわけもなく、自然と無言になった。

「俺はさ、お前が羨ましいよ」

 ふと漏らされた言葉に、ぼくは目を瞠る。青葉くんがぼくを羨むことなどあるはずがない。ぼくが聞こえなかった振りをすると、青葉くんはそれきり何も言わなかった。

 分れ道に着き、青葉くんがぼくに向き直って手を振る。

「また、俺と話してよ」

 なぜこんなぼくと話したがるのかはわからなかったが、ぼくは青葉くんと話すことで彼に近付けるような気がして、ただ頷いていた。青葉くんは嬉しそうに笑みを浮かべ、再度手を振り、背を向けて歩き出した。ぼくは彼の背に向けて遅ればせながら手を振る。やはりぼくが青葉くんのようになることは不可能に近い。だけど青葉くんと近付くことで何かが変わるだろうか。




 それから、ぼくは度々青葉くんと帰路を共にすることが多くなった。

 数回の帰路に慣れつつあった日のこと。

「やっぱりさ、俺はお前が羨ましいよ」

 薄暗い道で影を作った青葉くんが、初めて一緒に帰った日と同じことを呟くように口にした。

 さすがにもう聞こえなかった振りは通じないと思い、ぼくはどうして、と聞き返す。青葉くんはそれには答えず、困ったような、悲しいような、不思議な笑みを浮かべるだけだった。その意味を汲み取れず、彼の言葉を待つ。

「お前はあんまり話さないけど、お前と話すの好きだな」

 全く違うことを言われ、それでもあの青葉くんに好きだと言ってもらえた喜びが身を震わせた。

「また話そうな」

 いつもの明るい笑みを見せた青葉くんはやはり夏の太陽のようで、眩しかった。

 ぼくは眩しさに目を細め、大きく頷いた。

 だけど、青葉くんとぼくが話したのは、これが最後だった。




 夏休みが明け、残暑もそこそこに木々や天候が秋に向けての準備を始めた頃。より一層受験が近付き、受験生は騒ついていた。しかしそれだけではなく、学校中が騒ついていることに気付く。人々がささめく声が次第に溢れる。

―――青葉くんが、死んだって。

 その一言が、ぼくを地の底へと落とした。まさか、あの青葉くんが。校内で青葉くんの姿を探すが、どこにも見当たらず、誰かが青葉くんの死についてささめく声だけが響く。

 そして、朝礼で教師が厳かな声で言い放つ。

「青葉が、亡くなった」

 本当なのだと、現実を突きつけられた。

 事故か病気か自殺か。それは明かされなかったが、曰く、受験のノイローゼが関係しているらしい。実際のところ、青葉くんがノイローゼだったのかどうかは誰にもわからない。ぼくも、知らない。ただ誰もが思ったのは、そんなはずがない、ということだった。それほどに青葉くんはノイローゼという単語とは程遠い存在であった。

 教師は皆に受験のことだけを考えろと告げ、青葉くんの死から僕達を遠ざけた。ぼくはそれからのことを覚えていない。

 いつの間にか放課後になっており、ただぼんやりと窓から外を眺めていた。以前よりも暗い雰囲気を出す運動部。その中に混じり、ボールを蹴る青葉くんはいない。

 ぼくは荷物を手に、フラフラと教室を出た。

 青葉くんが笑顔で走っていた廊下。青葉くんが挨拶をしてくれた玄関。そして青葉くんが楽しそうにボールを蹴っていたグラウンド。そのどこにも青葉くんはいない。夏の太陽を失った場所は静かに影を落としていた。

 校門をくぐり、一人帰路に着く。青葉くんと帰った時に彼が言っていた言葉を思い出した。

「俺は、お前が羨ましいよ」

 あれはどういう意味だったのだろうか。今となってはその意味を知る術もない。

 いつもの分れ道に着き、ぼくは立ち止まった。

 青葉くんがいつも帰る方向を向くが、青葉くんはもう笑顔で手を振ってはくれないのだろう。





 青葉嵐は、もうどこにも存在しない。

 夏が終わるのと同時に、誰にも何も言わずに消えていった。

 ぼくは無性に悲しくなって、一人こっそりと泣いた。

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さよなら青嵐 束川 千勝 @tsukagawa-tikatsu

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