闇パン

二石臼杵

パンからの脱獄

 はじめて足を踏み入れた刑務所の中は、ビールの匂いのようなものが漂っていた。


「ほら、こっちだ」


 当然、刑務所内で飲酒が許可されているはずもない。不審に思いながらも、看守長に促されるままに中を進んでいった。

 建物の奥に入るにつれ、ビールのような匂いが芳ばしい香りへと変わっていった。どこかで嗅いだことがあると思ったが、なるほど、これはイースト菌の匂いだったのだな。なにがなるほどだ。

 今日からここで毎日を過ごす身なので、もっと臭く汚い空気をイメージしていたのだが、予想に反していい香りに包まれ、引き締めた気分が思わずほぐされそうになってしまった。

 意外といい環境じゃないか、と思った。これからの生活への不安が少し薄らいでいく。

 いや、しょっぱなから気を緩めてはいかん。自分の頬を両の平手で打つ。乾いた音と多少の痛みが、実家に帰ろうとしていた理性を連れ戻してくれた。

 自分は受刑者としてこの刑務所に来たわけではなく、刑務官としてここで働いていくのだ。職場が、それも刑務所が焼きたてのパンの匂いで充満しているくらいのことで緊張を解いてはならない。でも、なんでパン?


「ここに配属されるとは、きみ、出世コースから外されたな」


 前を歩きながら看守長が笑った。自分は慌てて首を振る。


「いえ、そんな、これも立派な勤めですから……」


「まあ、悪くはない職場だから、のんびりやんなさい」


 通路の左側に並ぶ鉄格子を気にもせずに看守長は歩き続けていく。鉄格子の向こうの部屋にはところどころ受刑者のいる気配が伝わってくる。空いている部屋もあったが、看守長にとっては全て空室なのと同じ感覚なのだろう。

 刑務所の生活に慣れると受刑者たちは空気になる。そして、我々は空気を吸って生きているのだ。

 だがここの空気にはパンの香りも混じっている。しかも奥に行くほどに強くなっていく。パンの匂いに酔いそうだった。


「ここで働くにあたって、一つだけ気をつけてもらわなければならないことがある。今からそれを説明しよう」


 やがて鉄格子のゾーンを抜け、両脇がコンクリートの壁になったところで看守長は立ち止った。そこには一枚の扉があった。赤茶色の金属で造られた、物々しい扉だ。


「看守長、ここは」


「口で言うより見てもらった方が早い。それに面倒だ」


 看守長はポケットから鍵束を取り出し、一番大きく複雑な形の鍵を扉に差し込んだ。重い音を立てながら扉が開いていく。

 扉の先の部屋は、鉄格子が仕切りになって二つのスペースに分かれていた。鉄格子の向こうには、やけに広く立派な広間が広がっている。中は薄暗かったが、隅に一人の男が座っているのがわかった。さらにパンの匂いが強まる。疑問は尽きなかった。


「調子はどうかね」


 看守長は後ろ手に扉を閉めた。ここには自分と看守長と、おそらく囚人であろう男しかいない。


「おかげさまでよく焼けてますよ」


 男はなにかを抱えていた。侍が眠るとき、刀を肩にかけているのをテレビで見たことはあるが、男のシルエットはまさにそれだった。これだけ厳重な部屋に閉じ込められているのだ、もしかしたら凶器を持っているのかもしれない。

 しかし、焼きたてのパンの香りが緊張感を散らしていく。頼むからやめろ。

 男はゆっくりと立ち上がり、細長い棒状のものをこちらに向けて近づいてきた。


「看守長。お下がりください」


 やはり危険人物だったか。看守長の盾になろうと一歩前に進む自分を、看守長が手で制する。


「心配いらんよ。じきにわかる」


 とうとう男は手に持っている棒を突き出した。鉄格子の合間を縫って自分の前に差し出されたのは、美味しそうに焼けたフランスパンだった。


 だからなんでだよ!


「食べてみたまえ」


 看守長の命令には逆らえない。自分は恐る恐る、目の前に伸びたフランスパンの先端をかじってみた。

 その瞬間、口の中に天国が広がった。やや硬めだがそれでも噛み切れる表面はカリカリで、対照的に中から現れる生地は雲のようにふんわりとしている。バターを塗っているわけでもないのに、ほのかな塩味が舌に沁みる。かえってガーリックバターなどを塗らない方がよいのではと思えるほどの、絶妙な味の完成度だった。


「口に合ったようですね」


 男のその言葉を聞いて、ようやく自分が男の手からフランスパンをひったくり、両手で持っていることに気づいた。その手の中のフランスパンも、もはや最後の一欠片だ。自分はそれをためらうことなく口に放り込む。それが当然だと思ったからだ。


「看守長、これはいったい」


「フランスパンだね」


 そんなことは知っている!

 と怒鳴り返したいのを堪え、冷静に言葉を選ぶことにする。


「この男も、受刑者なのですか?」


「そうだ」


 男の方を見ると、彼は弱弱しく笑みを浮かべるだけだった。


「ではなぜ、受刑者がパンを持っているのです。それも焼きたての」


「パンの味に関する疑問はないのかね?」


 もちろんあるさ。だが、順序というものもある。

 看守長はもったいぶったように口ひげを撫でた。


「まあいいか。さっきのパンはな、ここにいる彼が作ったんだよ」


 言って、鉄格子の向こうを指差す。

 男はぼさぼさの頭を掻いて恥ずかしそうにうつむいた。


「あなたが?」


 自分の驚きの眼差しを、男は恐縮して受け止める。


「なぜ、受刑者にそのようなことが許されているのです。この部屋だって――」


 そこまで言って、ようやく部屋の全貌を見渡す。

 パン生地をこねる台やら、本格的なオーブンやら、その他製パンに必要なもろもろの機材が、部屋の隅に並んでいる。男を取り囲むそれらは、どちらかというと拷問器具のように見えた。


「さっきのパンを食べたろう? 彼の作るパンは美味い。これ以上の理由と答えがあるかね」


 自分はなにも言えなかった。言い返せなかったのではない。反論も疑問もいくらでも湧いてくる。だが、ただパンが美味いというだけの理由で、この刑務所内に立ち込める異常が全てまかり通っているということにぞっとしたのだ。


「彼の存在、そしてパン作りを許容すること。そしてパンを作っているか見回りに行くこと。それさえ守ってくれればいい。それが我々の一番の仕事だよ」


 看守長は振り返り、再び扉に手をかける。自分もそれに続いて部屋を出た。鋼鉄の軋む悲鳴を聞きながら自分が見たのは、徐々に扉に隠されて狭くなっていく男の、くたびれた笑みだった。






 この刑務所に勤めて一週間が過ぎた。週のルーティンを体験することである程度ここの実態がつかめてきた。だが、慣れられそうにはない。

 まず、ここの受刑者たち――例の彼含めて――は、格段に大人しい。同じ部屋にいても言い争うこともなく共同生活をしている。脱走や自殺を試みるなど論外だ。文句ひとつも漏らさず牢屋の中で暮らし、運動時間には外の見えないベランダに出て適度に体を動かし、刑務作業も黙々と真面目にこなす。


 しかし、彼だけはずっとあの部屋の中でひたすらパン作りに勤しんでいた。それ以外の作業の時間が惜しいと言わんばかりに、とり憑かれたようにパンだけを作り続けている。入浴も食事も、他の受刑者たちとは時間をずらしていた。そもそも、彼は他の受刑者たちと一切触れ合うことはないのだった。


 次に気になったのが、ここでの食事だ。意外なことに、一般の受刑者たちの口に、彼の作ったパンが入ることはない。かといって彼のパンを外に卸して売っているのかと思えばそうでもなく、彼のパンは我々刑務官の食事となっていた。

 三食ともパンだと知ってうんざりはしたが、驚くことに飽きることはなかった。あんぱん、サンドイッチ、カレーパン、フレンチトースト、クロワッサン、ウインナーロール。様々なパンが振る舞われ、そしてどれもがこの上なく美味しかった。むしろ食事の時間が最大の楽しみになりつつあると言っても過言ではないだろう。


 それだけに、どうしてもわからないことがあった。彼がなんの罪を犯してここへ収容されているのか、誰も口にしないのだ。

 看守長や所長に訊ねても「パンが美味いからいいじゃないか」と意味不明なはぐらかしかたをされ、同僚の刑務官たちはみな知らないという。果たして彼は本当に犯罪者なのか。その疑念は、発酵するパン生地のように膨らんでいくばかりだった。


 だが、いつまでもそのことを考えているわけにはいかない。今はとくに忙しいのだから。

 本日、この刑務所から晴れて刑期を終え、出所する者がいる。もちろん彼ではなかったが。出所が決まると、我々も忙しくなる。受刑者を引き取る家族への出迎えの有無や釈放時間の打ち合わせを行い、また受刑者本人には釈放準備指導をしなければならない。こうした数々の手続きを経て、ようやく囚人は牢屋から出て人に戻るのだ。


 釈放のときがきた。坊主頭の男の受刑者とともに刑務所を出る。これからいくらでも見ることができる塀の外の景色を眺め、坊主頭は深呼吸をした。少し離れたところには、男の出迎えであろう家族の乗った車が停めてある。

 坊主頭は私の方を向き直り、深々とお辞儀をした。頭の上の方にある十円玉はげが見えた。


「今までお世話になりました」


「自分が来たのは先週だ。たいしたことはしていない。それよりも、今までよく反省して刑に服してくれたね」


 そう言って、自分は手に持っていた紙袋を手渡した。看守長から釈放時に渡すようにと持たされたものだ。入所時にこの男から預かった金品などの私物なのだろう。

 それを受け取ったとたん、坊主頭は目の色を変えて紙袋を乱暴に破きはじめた。なにをする、と注意する間もなく、男は中身を取り出す。ふんわり焼けたあんぱんだかクリームパンだかが出てきた。パンが入っていたのか。刑務所中パンの香りに包まれているからわからなかった。


「ああ、そうだ。これが食べたくて、今まで耐えてきたんです。四六時中刑務所の中にパンの匂いがするのに、肝心のパンは食べられない。夢にまで見るとはこのことですよ」


 男は涙を流しながらパンを頬ぱった。黄色い中身が見えたので、クリームパンだった。男を引き取りに来た妻であろう女性が歩いてくる。がむしゃらにパンを貪る夫に困惑しているようだったが、自分もなんと言っていいものやらわからない。

 クリームパンを平らげた男は落ち着きを取り戻し、女性とともに一礼して去っていった。自分は、遠ざかっていく男の後ろ姿を呆然と見つめ続ける。その背筋はしゃんと伸びていた。


 これで一つ、明らかになったことがある。受刑者たちは刑期を終えると、褒美にあのパンを食べさせてもらえるらしい。飴と鞭というやつか。刑期がなければ、パンを食べればいいのだ。






「あんたはいつ、出所するんだ?」


 パン独房、と自分は勝手に名付けているその部屋で、男にそう訊いてみた。今日の見回りの担当は自分だった。


「美味しいパンが焼けるようになったら、ですかね」


 男は台の上でパン生地をのし棒で伸ばしていた。


「今以上に? もう充分じゃないのか」


「嬉しいことを言ってくれますね」


 生地を三つ折りにし、丸めながら男はつぶやいた。


「看守さんは、パンがどうやって発酵するのか知ってますか?」


「いや、イースト菌が関わっていることぐらいしか知らないが」


「充分ですよ」


 男は笑った。生地は四角い金属の型に入れられている。今日は食パンか。


「イースト菌がパン生地の中に含まれる糖を分解して、炭酸ガスとアルコールを作っているんですよ。炭酸ガスが生地を膨らませて、アルコールはよい香りの元になります」


「まるで科学だな」


「似たようなもんですから」


 男は食パン型を愛おしそうに撫でた。


「今、この中でそれが行われているんですよ」


 ぼさぼさの髪の隙間から、楽しそうに歪んだ男の目が覗いていた。


「で、あんたは本当はなぜここにいるんだ?」


「日本とフランスで同じ材料でパンを作っても、同じ味にはなりません。なぜでしょう」


 答えになってなかった。


「さっきからなんの話をしている」


「水が違うからですよ。日本の水は軟水で、フランスの水はミネラルをたっぷり含んだ硬水。パンは繊細なので、水一つでも味は大きく左右されます。ましてや、イースト菌まで変わってしまったら、その味は天国にも地獄にもなるでしょうね」


 男はパンへの愛撫をやめ、鉄格子に近づいてきて座り込む。なにが言いたいのか、自分は薄々わかりはじめていた。


「最初はただの訪問販売で、慰安のつもりでここに来たんですよ。でも、ここで発酵させたパンが美味しくなりすぎてしまった」


 遠い目をしながら男は言う。空中に、そのときの思い出を投影して眺めているようだった。


「刑務所の中の空気は独特です。いろんな感情が渦巻いている。不安だったり、後悔だったり、罪悪感もあるでしょう。もしかしたらそれらにイースト菌が反応し、なんらかの変化が起きて、今の味のパンを作ることができているのかもしれません」


「じゃあ、あんたはひょっとして……」


「もう三年になります。ここの職員の方々は美味しいパンをなんとしても食べたい。僕はここでしか美味しいパンを作れない。だから今、ここにいるんです」


 絶句するしかなかった。常々異常だとは思っていたが、事態は自分の想像以上に狂っていた。パンが美味しすぎることがまるで罪のようではないか。

 おそらくこの男はなにも悪いことをしていない。パンの味と引き換えに、この刑務所に囚われているのだ。こんなことが許されていいはずがない。


「あんたは、それでいいのか」


「最高の味を生み出すためなら、しかたないですよ」


 彼は力なく微笑む。その表情に引っかかるものを覚えて、自分の口は勝手に動いていた。


「自分にはパン作りのことはさっぱりわからん。だが、一ついいか。あんたの言うイースト菌に影響を及ぼしている一番の要素は、あんた自身の心の消耗じゃないのか」


 その言葉を受けて、男の顔から笑みが抜け落ち、表情の時間が止まる。不意に核心を突かれたようでもあり、そこではじめて自身の気持ちを自覚したようでもあった。


 この男の手先は器用だ。パン作りの神の手と言ってもいい。だが、こいつは自分の気持ちに関してはとことん不器用なのだった。

 自分は静かに決意した。やるなら今日しかない。






「おや、どうしたね。さっき釈放に立ち会ったんじゃなかったのか」


 通路で看守長に声をかけられ、足が止まる。努めて冷静に、動じないように心掛けながら自分は返事をした。


「彼が忘れ物をしたようなので、特別に中へ入れてしまいました」


 看守長はこちらの背後にいる坊主頭をじろりと見、それから自分を見て目くじらを立てた。


「勝手に判断してもらっちゃ困る。ちゃんと手続きをしなさい」


「申し訳ありません。まだ日が浅いので、勝手がわかりませんでした。ただちに帰します」


「頼むよ」


 ふんと看守長は鼻息で口ひげを揺らす。自分と坊主頭の男はそそくさとその場を後にした。

 通路を抜け、いくつもの独房や雑居房を横目に通り過ぎながら、自然と自分たちは早足になった。

 ついに刑務所を飛び出し、塀の外に出る。パンの匂いから解放され、すがすがしい気分になる。

 自分と坊主頭の男はそれからしばらく歩き、刑務所から充分に離れたところで顔を合わせた。


「まさかこんなに上手くいくとは思いませんでした」


 男が興奮した様子で言う。さっきまで生えていたぼさぼさの髪は、パン独房の中で全て刈ってしまった。パン用ハサミというのがあるとは、はじめて知った。あの部屋の設備が充実していて助かった。


「看守さんは、これからどうするんですか」


 男が不安げな瞳で訊ねる。自分は笑った。


「自分のことはいいさ。あんたこそどうするんだ。もう、パンは作らなくていいんだぞ」


 彼は少し口ごもって、それから小さな、けれども確固とした意志を滲ませた声を発した。


「いえ、僕はこれからもパンを作り続けます。やっぱり好きですから。あそこにいたときほど美味しいパンを作れる自信はありませんけどね」


「なら見つかって連れ戻される心配はないな」


 それからしばらく二人で笑い合った。ひとしきり笑ったあと、自分は彼の肩を叩き、それから後ろを振り向かせて背を押す。


「さあ、行くんだ」


「看守さん。本当にありがとうございました」


「もう看守じゃなくなるかもしれんがな」


 これが原因で辞めさせられても構わない。自分は自分の筋を通したのだから。正義とは、こうあるべきなのだ。そして美味いパンとは、誰かが独占するものではなく、多くの人に食べられてこそ意味がある。


「いつか、あそこで作ったもの以上の味のパンを作ってみせます。そうしたら、ぜひ食べに来てください」


「楽しみにしておくよ」


 そのときは、是が非でも立ち寄らせてもらおう。ただ、自分が訪れたときにまだパンが残っているか、怪しいものだが。

 何度も何度も頭を下げて遠ざかっていく彼を見送り、姿が見えなくなったところで回れ右をする。


 さて、大変なのはこれからだぞ。看守長や所長は激怒しているだろう。他の受刑者たちも暴動を起こすかもしれない。

 だが、それは無実のパン屋を捕らえていたつけだ。

 あの刑務所はパンに全てを支配されていた。パンに運営を委ねていた、ねじれた空間だ。

 それでは救いようがない。人を潤すためのパンが、人を縛る絶対のルールになってしまっては、どんなに美味しくても味気ない。

 人はパンのみにて生くるに非ず、だ。

 刑務所へ戻る足並みは不思議と軽かった。彼を逃がしたあのとき、自分の心も一緒に出所できたのだろう。

 戻ったら、まずなにから始末をつけるべきか。

 そう言えば、パン独房ではそろそろ食パンが焼き上がっている頃だ。それを食べてから考えようと思った。もしくびになったら、パン屋でバイトでもしてみるかな。

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