機械仕掛けの彼女に花束を
伊達ゆうま
彼女はある日、病気になった
病院の廊下の窓からは、雪で照らされた夜の街が見えた。
「雪か。どうりでこんなに寒いわけだ」
俺はそうつぶやいて、病室のドアを叩いた。
ドアの横には「遠野夏海」と書かれたプレートがはめられている。
「はーい!!どうぞー!!」
中から明るい声が返ってきた。
俺はその明るい声にホッとしてドアを開ける。
ベッドで本を読んでいた女の子が、俺の顔を見てニコニコと笑った。
「夏海、具合はどうだ」
俺の声に夏海はケロッと笑った。
「大丈夫!大丈夫!
もういつ退院してもいいくらい元気だよ〜!!」
そう言って夏海は、両腕をブンブンと振り回した。
俺はそれを見て笑った。
彼女は今、体の半分が機械化していた。
科学・医療技術の向上が進み、よほどの病気でない限り、人類は穏やかな死を迎えることが出来るようになっていた。
彼女は運悪く、よほどのパターンに当てはまってしまった。
それを俺が知ったのは、半年ほど前のこと。
梅雨明けの夏空の下で、彼女は笑って言った。
「私、病気になっちゃった!」
俺はそれを聞いた時、いつもの下手な冗談だと思った。
元気なことが、夏海の長所だったのだ。
不治の病で全身を機械の部品に置き換えなければ、生き延びることが出来ないなど、俺は信じることが出来なかった。
夏海のことだから、だいぶ遅めのエイプリルフールだと思った。
「暴れて看護師さんに迷惑かけてないか?」
「かけてないって!!」
夏海はそう言って頰を膨らました。
夏海の手術は8回に分けて行われる。
彼女はつい先週、4回目の手術を行った。
これで体の半分は機械になっていた。
「ねえ、晴翔くん。私、あれが欲しい!!」
「あれって前に言ってたヤツか」
夏海はフンフンとうなずく。
彼女は前々から、見舞いの品に花を欲しがっていた。
しかしこの病院は衛生面の関係から、花束はNGだった。
そこで夏海はプリザーブドフラワーかドライフラワーが欲しいと言い出した。
とにかく、彼氏から花をもらう経験がしたかったらしい。
俺はこれまで夏海に花などあげたことなどなかった。花より団子ということで、お菓子をあげた方が喜ぶと思っていたからだ。
「それは分かってるけど、どっちも作るの難しいんだよ」
俺はプリザーブドフラワーの作り方を調べてみたが、作り方が複雑怪奇で訳が分からなくなった。
ドライフラワーならばまだ望みはありそうなので、今はそちらに挑戦しているところだった。
「晴翔くん、不器用だもんね〜
まあ、時間はまだまだあるよ!!
チャレンジ!チャレンジ!」
夏海はそう言ってケラケラ笑った。
夏海の次の手術から、脳を機械化していくことになっていた。
彼女は脳を機械化することにより、少しずつこれまでの記憶が消えていく。
「夏海!あとワンチャン!!
あとワンチャンくれ!
次のドライフラワーはうまくいきそうなんだ!!」
俺としては記憶が消える前にすこしでも、思い出が欲しかった。
彼女の容体のこともあり、毎日会えるわけではなかった。
俺は夏海の記憶がなくなることに抗(あなが)いたかった。
「オッケー!!待ってあげるから、とびっきりのよろしくね!!」
夏海はそう言って親指を立てた。
夏海の5回目の手術の前に、俺はなんとかドライフラワーで飾られたリースを作り上げた。
ネットで見たものと比べると、見かけはよくなかったが、それでも夏海は喜んで受け取った。
「これで手術もバッチこーいだぜ!!」
そう言って彼女は5回目の手術を受けた。
***
俺は5回目の手術が終わった1週間後に病室を訪ねた。
「あいよー!!空いてるよー!」
俺が中に入ると、夏海が俺が作ったリースを頭に乗せていた。
「夏海、具合はどうだ?」
俺の言葉に夏海は勢いよく親指を上げてみせた。
「もうバッチリよ!!明日にでも退院いけんじゃね?ってくらい元気だよー!!」
「そうか。って、おい。
そのリースは壁に飾るものだ。
頭に乗っけてどうする」
「ええーっ!!どうりで私の頭には、キツキツだったわけだ。
私の頭のサイズを晴翔くんが分かってないのかと、凹んでたよー!!」
「見たら分かるだろ。
大体、不器用な俺にはこれが精一杯だ」
「分かったー!!じゃあ、次もまたこれ作ってきてよー」
夏海はケラケラと笑った。
記憶を失っていると主治医は言っていたが、そのカケラも見えない。
「分かったよ。また作ってくるよ」
「次は違う種類の花がいいー!!」
「はいはい。善処しますよ」
俺の言葉に夏海はピョンピョンと跳ねて喜んだ。
夏海の6回目の手術の前に、俺は2個目のリースを作り上げた。
前よりは少しマシになった気がする。
夏海は2個目のリースを頭に乗っけてはしゃいでいた。
「これで手術もバッチこーいだぜ!」
そう言って彼女は6回目の手術を受けた。
***
俺は6回目の手術が終わった1週間後に病室を訪ねた。
「あいよー!!入ってどうぞー!!」
変わらない夏海の元気な声に俺はホッとする。
主治医からは、6回目から本格的に脳を機械化していくので、記憶の欠如が激しくなっていくと言われていた。
中にいる夏海は前と変わらないように見えた。
「よおっス!!マイダーリン、元気にしてたかい!!」
そう言って夏海は親指を上げてみせた。
「相変わらずだな」
俺は苦笑いをする。
「見てよ!このリース!!
2つもあるよ!!
こんなにあったら、どっちを頭に乗せればいいのか困っちゃうぜ!!」
そう言って夏海はリースを頭に乗せてみせた。
「だから、それは頭に乗っけるものじゃないぞ。
壁に飾るものだよ」
「マジでか!!晴翔くんが私の頭のサイズを分かってないのかと凹んだよー!!」
俺は夏海の言葉に違和感を感じた。
しかし、俺はそれを打ち消して笑った。
今、夏海が言ったことは、夏海のいつもの冗談だと思うことにした。
「お前、リース好きだな〜」
「…おうよ!!晴翔くんの作るドライフラワーは逸品だからね!
なんなら、プリザーブドフラワーも作ってもらおうかな〜」
夏海の言葉に俺は頭を殴られるような衝撃を受けた。
「そうだな。今度はプリザーブドフラワーにも挑戦してみようかな」
「マジでか!!言ってみるもんだね!!」
夏海はそう言うと、ベッドの上を跳ね回った。
夏海は俺がプリザーブドフラワーに挫折したことを覚えていなかった。
俺は病室を出てから、主治医に話を聞きに行った。
頭のてっぺんが禿げあがり、まるでカエルのような風貌の主治医は俺の話を聞き、重々しく口を開いた。
「彼女は今、自分と家族の名前、それとあなたの名前。
これしか覚えていません」
6回目の手術でそんなに忘れるのか。
俺は愕然とする。
「遠野さんのようなケースはなにぶん少ないもので、他の患者さんとの比較が難しいのです。
記憶がどれほど欠落するかは、人それぞれとしか言いようがないのです」
俺はどこかで高を括っていた。
俺と夏海の過ごした年月は決して短くてなかった。
思い出も数えきれないほどあった。
俺との思い出を夏海は一つ一つ丁寧にアルバムに保存していた。
そのアルバムは入院する時に、病室に持ち込んでいた。
夏海によると、毎日それを眺めるのが日課だそうだ。
「遠野さんはアルバムを持ってこられていますね。
私としては、そのアルバムを見ることを止めてもらいたいのです」
「どうしてですか」
「アルバムを見ても、遠野さんがその記憶を思い出すことはありません。
脳を機械に換えているのですから。
アルバムを見ることは、彼女にとって思い出せないという現実を突きつけるのだけで、ストレスにしかならないのですよ」
主治医の言葉に俺は手を握りしめた。
「ですが、彼女はどうしてもアルバムを手離そうとしません。
記憶が手術で消えるとしても、少しでも長くあなたの顔を覚えていたいのでしょう」
夏海は覚えのないものを見て、必死に思い出そうとしていた。
脳が切り取られているのだから、思い出せるはずがない。
それでも辛い思いをしながら、毎日アルバムを見ていた。
少しでも覚え直して、俺と話すために。
それが次の手術で消えるとしても。
「今日はもうお帰りなさい。
八上さん、あなたも大変でしょう。
あなたが元気な姿を見せれば、彼女も安心します」
主治医の声はどこか遠くから聞こえるようだった。
病院の外に出て、俺は息を整えた。
夏海が必死に頑張っているのに、俺が暗い顔を見せるわけにはいかなかった。
***
次の面会日に、俺はまたドライフラワーのリースを持っていった。
プリザーブドフラワーは、やはり俺には作れなかった。
俺は病室のドアを叩いた。
中で慌てて物を片付ける音がした。
「あいよー!!くるしゅーうないぞ!!」
俺が中に入ると、夏海がいつもと変わらない笑顔で俺を出迎えた。
「くるしゅーうないぞって、お前は将軍かよ」
「私は偉いからね!!
余の言うことは絶対ぞ!」
「へへーっ」
俺は大げさに頭を下げてみせると、夏海は満足そうにうなずいた。
俺がリースを渡すと夏海は飛び上がって喜んだ。
「いやぁ、これで3個目だぜ!
私は本当に花が好きなんだな〜」
夏海が花が好きかどうか、俺は分からない。
あれほど一緒に過ごしてきながら、俺は夏海がどんな花が好きかなど気にもかけてこなかった。
どうせ、色気より食い気だろ。
そう思ってきた。
こんなことなら、ちゃんと聞いておけばよかった。
「そうなんだよ。
お前、本当に花が好きでさ。
このリースも作るの大変だったんだぞ」
「そっかあ。ありがとね!晴翔くん!」
そう言って、夏海はリースを頭に乗せた。
「どう?似合う?」
夏海がドヤ顔をしてみせる。
「ああ。よく似合う」
俺の言葉に夏海は照れた顔で笑った。
***
俺は7回目の手術を前に主治医に相談した。
アルバムを夏海から取り上げた方が、いいのかどうかについて。
手術を行ってから目覚める間にアルバムを取ってしまえば、アルバムがあったことも夏海は忘れる。
毎日辛い思いをしながら、アルバムを見ることもなくなる。
「八上さん。
あなたが今後、遠野さんと会わないのならば、アルバムを取り上げても問題ありません」
「会わないとはどういうことですか」
「遠野さんがアルバムを見ていたのは、あなたの顔を覚えるためです。
それなのにアルバムを取り上げて、あなたが顔を見せたら、夏海さんはどうなりますか?」
夏海にとっては、いきなり覚えのない人間と出会うことになってしまう。
それでは、夏海をより苦しませてしまうだけだ。
「6回目の手術の後、夏海さんは親しい友人に聞いていました。
自分がどんな性格か、どんな振る舞いをするのか。
そして、病室で練習をしていました。
あなたを不安にさせないために。
自分は大丈夫だと伝えるために」
主治医は傍に置いてあったグラスに水を注いで、口に入れた。
俺もグラスを受け取る。
「遠野さんのケースは、非常に難しい話なのです。
肉体を機械化させる。
これ自体は現在の医療技術で可能です。
しかし、少しずつ身体が機械化していくということは、患者の方にはとても辛いことです。
機械化した部分のリハビリもですが、自分の肉体だった部分が機械に置き換わるという違和感、ストレスは大変なものがあります。
私たちに出来ることは、いかに遠野さんの負担を減らし、心の支えになれるかということです。
遠野さんのご家族、親類、友人、多くの方々が彼女の助けになろうと頑張っておられます。
八上さん。
恋人として、あなたにしか出来ないことがあると私は思います。
それをよく考えていただきたい」
主治医に頭を下げて、俺は病院を出た。
俺は夏海の頑張りに応えたい。
たとえ、その記憶が次の手術で失われるものでも。
それから俺は、会うたびに夏海の話に合わせて笑い、冗談を言うたびにツッコミをいれていた。
7回目の手術の時がきた。
「晴翔くん、ちょっくら行ってくるよー!!」
そう言って夏海は笑ってみせた。
***
7回目の手術の後は記憶の混濁が激しいため、1ヶ月は面会禁止だった。
面会日が来た。
俺は緊張して、夏海の病室のドアを叩いた。
「アイヤー!!あいてるよー!」
中から陽気な声が聞こえた。
俺はホッとして病室に入る。
夏海は相変わらず笑っていたが、今までと比べると顔色が悪かった。
「よう」
俺はかける言葉が見つけられず、こんなことしか言えなかった。
「えーっと、晴翔くん!!」
「おう!どうした」
俺が近付くと夏海は白い歯を見せて笑った。
「あのさ、元気してた?」
「ああ。もちろんだ。
夏海こそ、少し顔色が悪いぞ。
ちゃんとメシは食ってるか?」
「おうよ!全身が機械になっちゃって、ご飯より機械油の方が美味しく感じるけど、私は元気も元気!大元気だぜ!!」
「そうか。それはよかった」
会話が途切れる。
いつもは夏海がひっきりなしに話していたから、会話が途切れることなどなかった。
うるさくて、少しは静かにならないものかと思っていたが、今はそのやかましさが懐かしかった。
「そうだ。
ほら、リース持ってきたぞ」
沈黙に耐えきれず、俺は慌てて作ってきたリースを差し出した。
「ありがとう!」
そう言って、夏海はリースを受け取った。
そして、リースを壁に飾った。
「すごく上手だね!!
晴翔くん、天才なんじゃない!!」
「…ああ、そうだろう!俺は天才だからな!」
そう言って俺は笑った。
前にあげたリースもきちんと壁にかけてあった。
俺は最近あった身の回りの出来事を話した。
夏海は笑顔でうなずいていた。
俺はしばらく話し続けた。
沈黙を二度とつくるまいと話し続けた。
看護師が来てくれたことが、これほどありがたいと思っていたことはない。
病院を出てから、俺は当てもなくフラフラと街をさまよった。
気付いたら、公園にいた。
ベンチに力なく座り込む。
夏海はほとんど何も覚えていない。
これまで無理やり違和感から目を背けていたが、そのツケが一気に押し寄せてきた。
話す度に夏海と俺との距離が遠くなる。
俺には当たり前のことが、夏海には当たり前じゃない。
今の時代は医療技術の発展により、見た目は機械化する前と同じようにすることが出来た。
しかし、人の記憶までは復元することが出来ない。
身体も脳も機械化した彼女は、俺の知っている遠野夏海なのだろうか?
ただの機械人形ではないのか?
俺はそんな思いに至り、慌てて自分の頰を叩く。
それくらい彼女の手術の話を聞いた時から、覚悟していたはずだ。
夏海はあれだけ頑張っているのだ。
次はうまくやる。
***
俺は次の面会日に、またドライフラワーを飾り付けたリースを持っていった。
俺は腹をくくり、病室のドアを叩いた。
「はーい!どうぞー!!」
いつも通りの元気な返事が返ってきた。
中に入ると、夏海が笑顔で俺を待っていた。
「夏海、元気か?」
「もちのロンよ!!
あと1回の手術で完全に治るからね!!
完全復活まで、あと一息だよ!」
「わかった。じゃあ退院したら、どこかに遊びに行こうか」
「マジで!!やったぁーー!!」
夏海は大喜びで退院した後に行きたい場所、食べたいものなどを、あれこれ口にした。
***
8回目の手術の前日、俺は夏海の病室を訪ねた。
夏海は俺の見る限りでは、すこぶる元気そうだった。
「せっかくだから、退院したら旅行行こうよ!!
晴翔くんもお休みとってさ。
1週間くらい遠出しようよ!!」
夏海は旅行のパンフレットをたくさん部屋に持ち込んでいた。
「友達と行かなくていいのか?」
「友達とも行きたいけど、晴翔くんとも行きたいからね!!友達とはその後行くよ!」
「そっか」
俺はパンフレットを開いて、楽しそうに話す夏海を見ていた。
パンフレットには夏海が行きたい場所などが、赤丸でチェックを入れてあった。
しばらく話した後、夏海は空が見たいと言い出した。
俺は許可をもらってから、夏海を車椅子に乗せて、病院の屋上へ向かった。
もう春も終わり、鯉のぼりが空を泳ぐ頃だ。
暖かい風が頰をかすめる。
「時が過ぎるのは早いね〜!!
私も年をとったな〜!!」
「なんだよ。年寄りくさいな」
夏海の元気な声に俺は笑う。
「私、死ぬのかな」
夏海がポツリと言った。
「これまで手術の前は、アルバムを穴が空くほど見て、みんなことを覚えようとしてたの。
けど手術が終わってからアルバムを見ると、何も分からない。
何も感じない。
名前と顔が一致しない。
お父さんやお母さんの顔すら分からない」
俺は黙って夏海の話を聞いていた。
車椅子を押している形なので、夏海の顔は俺からは見えないし、夏海に俺の顔は見えない。
「身体は完全に機械。
脳も全て機械。
記憶もない。
私って人間なのかな?」
夏海の肩が震える。
俺は夏海の肩に両手をそっと置いた。
「夏海は夏海だ。
俺が夏海だっていう限り、遠野夏海は消えはしない」
「そっか。そうだね!!そうだよね!!」
夏海は大きく息を吸い込み、青空に向けて拳を突き上げた。
「我こそは遠野夏海だぁーーー!!!」
夏海は大声で叫ぶと、ケラケラと笑った。
「晴翔くん、1つお願いがあるの」
「なんだ?」
「私が退院したら、花束が欲しいの。
部屋に飾りたいんだ」
「分かった」
俺はうなずいた。
夏海は次の日、最後の手術に向かった。
「さらに可愛くなって戻ってくるから、惚れるなよ〜!!」
夏海は元気よく笑っていた。
***
8回目の手術から2週間経った。
夏海の容体が落ち着いたと主治医から連絡があった。
俺は夏海の病室に行く前に主治医の元へ行った。
「身体の方はもう心配はないでしょう」
「身体の方はですか」
「これまでの遠野夏海さんの記憶は一切消えています。
遠野さんは目覚めてから、アルバムや日記などでこれまでの記憶を覚えてきました。
ご両親とも面会して会話もしています。
しかし、彼女が最も話すべき相手は、あなたなのです。
あなたが少しずつ彼女と話していくことで、彼女は一人の人間として生まれ直すことが出来るでしょう」
「一人の人間としてですか」
「はい」
主治医は言葉を探しながら丁寧に話した。
「現在、医療技術は進歩し、大半の病気は治る時代となっています。
しかし、精神面に関してはまだまだ未発達の状態です。
肉体は完全に治癒出来ても、精神、心は治すことは出来ません。
投薬と本人の治癒能力に任せているのが現状です。
夏海さんのケースはまだ積み重ねが少なく、治療も探り探りの状態でした」
これは入院する前にも主治医から言われたことだった。
全身を機械にすることで存命するケースは、まだ世界でも数えるほどしかなかった。
「今回の夏海さんの場合は、脳を徐々に機械化していきました。
それにより、記憶は消えていきました。
しかし、一方で遠野さんはアルバムを見たり、八上さんと話すことで、記憶の補充をしていきました。
遠野さんの場合は、それが功を奏したようです。
八上さんと話した後は、話す前よりも元気になっていました。
やはり、脳以外の部分、身体もしくは精神、心であなたのことを覚えていたのではないかと私は思います」
「正直俺には難しい話です」
「そうですね。
我々も言語化するのに四苦八苦していますからね」
主治医はそう言って苦笑いをする。
「彼女は全身を機械化するという常人にとっては精神が破綻してもおかしくないほど、過酷な経験をしました。
過去に全身を機械化した人には、途中で精神面で壊れてしまい、亡くなった方もいます。
それでも彼女はそれを乗り切って、ここまでやって来ました。
あと一息のところまで彼女はやって来ました。
私からあなたにお願いしたいのは、彼女のあと一歩を助けてほしいと言うことです。
家族、友達、親戚、様々な人たちが遠野さんの戦う背中を押してきました。
最後はあなたが一押しをしてもらえませんか?」
俺は自分の手を強く握りしめた。
***
俺は夏海の病室のドアを叩いた。
「あいよー!!あいてるぜよ!!」
変わらない元気な声にホッとする。
中に入ると、夏海がニコニコと笑っていた。
その笑顔は紛れもなく夏海だった。
何度記憶が消えても、変わることのなかった夏海の笑顔だ。
その笑顔に俺は思わず泣きそうになるが、必死に涙を堪えた。
「よお。元気か」
「あたぼうよ!!」
そう言って夏海は親指を上げてみせた。
俺は彼女のベッドの脇に旅行のパンフレットが置いてあるのが目に付いた。
どうやらさっきまで読んでいたらしい。
「どこに行きたい?」
俺が聞くと夏海は俺を手招きした。
「行きたいとこがありすぎて、困ってたとこなんだよ!!」
「時間はたくさんある。
ゆっくり考えよう」
俺が言うと、夏海は笑顔でうなずいた。
「うん!!」
夏海は俺の顔と名前を覚えて待ってくれていた。
夏海が失った記憶と思い出は蘇ることはない。
だが、俺も夏海も悲観的にはならなかった。
これから、いくらでも思い出は積み重ねることが出来る。
時間はまだまだある。
今、俺は夏海が笑顔で横にいてくれることが、こんなにも幸せなのだなと改めて思った。
「あれ?晴翔くん、泣いてる?」
「泣くわけないだろ!!
こんなにも、嬉しいんだから!」
俺の泣き顔は結局、夏海に見られることとなってしまった。
この件だけは、夏海が忘れてくれればよかったのにと俺は心の底から思った。
これから一生、この件でからかわれることになるのだから。
***
夏海が無事に退院してから、俺は花束を買いに行った。
どの花がいいのかよく分からなくて、俺は店員さんに勧められるがままに購入した。
今日の待ち合わせは、駅前の公園だった。
人もそれなりに通るので、正直なところ花束を持って歩くのは中々に恥ずかしい。
夏海はすでに待ち合わせ場所に来ていた。
手をブンブン振るので、とても目立つ。
俺は花束を背中で隠していた。
夏海はニヤニヤと笑っていた。
「晴翔さ〜ん。何か今日、渡すものがあるんじゃないですか〜」
俺は大きく息を吐いた。
「退院おめでとう。
そして、これからもよろしくな」
夏海は俺が差し出した花束を笑顔で受け取った。
「こちらこそよろしくね!!」
彼女が伸ばした手を俺はしっかりと握った。
紛れもなく、俺の覚えている遠野夏海の手だ。
とても暖かい手だった。
機械仕掛けの彼女に花束を 伊達ゆうま @arimajun
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