永遠を彷徨うコンドルの噺-5-
「チュチャ、また話を聞きに来たよ」
慣れた道を馬で進み、家の外から声を掛ける。気持ちを落ち着かせようと遠回りしたために、いつもより遅い時間になってしまった。馬を降り、手綱をチュチャの家の前に結びつけると、ヨセフは皺になってしまった襟元を整えた。多少衣服が乱れていたところで、チュチャは何も言わないだろう。だが心の内の葛藤を、彼女に悟られたくはなかった。
「チュチャ。……いないのか?」
普段はこうして呼びかければ、すぐにチュチャが顔を出した。だがその様子がないのは、もしかすると留守なのだろうか。
薄い戸板が立てられただけの、木造の家の前に立つ。中から何やら、複数の人間の声が聞こえていた。インティの言葉だ。ヨセフの他に、誰か客でも来ているのであろう。
出直すべきかと逡巡し、しかしその直後、扉が開くのを見て顔を上げた。
チュチャの家から顔を出したのは、見知らぬ一人の男であった。
どう見てもインティの男だが、それにしては背が高く、がっしりとした体格だ。刺繍の入った衣服から覗く腕は太く、農夫といった風貌ではない。どちらかといえば、戦いに赴く戦士のようでさえある──
(……、戦士)
──私達の一族は、最盛の王コリンカチャにも認められた、勇敢なる戦士なの。
思い出し、はっと大きく息を吸う。すると男の後ろから、何事もなかったかのように、チュチャが顔を覗かせた。
「こんにちは、トゥパク。これが、私の兄のワスカルよ」
「……、こんにちは」
やっとの事でヨセフが言えば、ワスカルと呼ばれたチュチャの兄も、「こんにちは」と口の両端を上げてみせた。ぎこちないが、微笑んだのであろう。ワスカルが一歩外へ出ると、その後ろにいた女が二人、外へ出た。インティの女だ。彼女らは旧大陸風の衣服を身に着けたヨセフを見て一瞬ぎくりとした顔になり、しかしヨセフの顔つきから、どうやら混血らしいと見て取ると、目は合わせずにそそくさと場を立ち去った。
二人とも手足に傷を負い、それを手当された風貌であった。一人は足を引きずっており、もう一人がそれを支えている。
「入るといい。まだ少し冷える時期だ」
女達の様子を見守っていたヨセフに、ワスカルが穏やかな声でそう言った。ヨセフは「はい」と頷くと、「はじめまして」と緊張気味に挨拶する。
「あの、度々家にお邪魔していたのに、なかなかご挨拶できなくて、すみません……。トゥパクといいます。母がインティで、それで、インティとしての名前ももらっていて、」
「チュチャからインティの歴史を聞いて、記録しているんだろう。話は聞いているよ」
ワスカルがそう言って、座るようにとトゥパクに促す。チュチャの兄は普段、日中は狩りに出かけているため不在なのだと聞いていたが、今日は人と会う約束があり、こうして家に残っていたのだという。
チュチャに兄がいること、両親は他界しており、兄妹二人きりであることは、既にチュチャから聞いていた。ワスカルの方も、チュチャからヨセフの話は聞いていたらしく、ヨセフが家に上がり込んだところで、だから何というわけではないようだった。
「今の人達は?」
ヨセフが問う一方で、チュチャはスープを器によそい、ヨセフに手渡してくる。インティ流のもてなしだ。ヨセフは素直に受け取ると、それに口をつけた。
「アルマスに住んでいた人達よ。白き人々との間で揉め事が起きて、町に住めなくなったから、この村で受け入れることになったの」
「揉め事?」ヨセフが問えば、チュチャは一瞬目を伏せて、しかし臆せずこう言った。
「異端審問よ。白き人々が以前から、私達インティの人間にも、彼らの神を崇めるように説いていたのは知ってるわよね。その風当たりが、段々強くなってきたみたい。彼女達は太陽神の紋に祈りを捧げていたのを見咎められて、町での職を解かれ、追い出されたんですって」
異端審問。それを聞いてヨセフは、ごくりと唾を飲み込んだ。その言葉はどちらかと言えば、神学校で習った旧大陸の歴史の中に馴染み深い。唯一神を讃える彼らと、邪悪な神を祀る異教徒との戦いの歴史については、何度も授業で聞いていた。異なる神を信仰する人々を、異端の者、未開の者と一括りにする彼らは、敵に一切の容赦をしない。
インティの土着の神々は、これまで比較的容認されてきてはいた。だがその本格的な排除が始まったのだとしたら、きっと、インティの神々はすぐにでも、忘れ去られてしまうだろう。
インティの人々は文字を持たない。彼らの神々は、ただ、その時を生きる人間の思いの中にしか、生きてはいないのだから。
ヨセフの表情が
「旧大陸から来た征服者達は、きっと、私達の歴史と一緒に、私達の神のことすら殺してしまいたいんだわ。だからこうして弾圧する。あなたが文字で書き残すインティの記録は、とても魅力的に思えたけど、……。だけどその存在を、白き人々は快く思わないでしょう」
チュチャの言葉は
彼女の言うとおりだ。ヨセフもそのことは、承知しているつもりであった。けれどだからこそ、──ヨセフの心が、その正論を否定する。
「話して、チュチャ。いつもみたいに」
持参していたノートを開き、ヨセフが言えば、チュチャははっと視線を上げて、「いいの?」とヨセフにそう問うた。
「いいんだ。だって俺は、……俺はインティを、知りたいんだもの」
チュチャはすぐには答えなかった。けれどしばしの後、そっとヨセフの正面に座ると、彼女は大きく息を吸う。そうしていつものように、たった今の問答など、何もなかったかのように、こう言った。
「先週の話の続きをしましょう。確か、コリンカチャがビルカバンバの麓にある、ススル・プガイオと呼ばれる泉に通っていたところまで話したのよね」
チュチャの言葉に、一つ頷く。すると彼女はいつものように、また滔々と、インティの歴史を語り始めた。
「火の大陸を縦横に渡り諸部族をその支配下に置き、タワンティン・スウユを富ませた英雄の王、最盛の王コリンカチャは、まだ幼い頃、ススル・プガイオと呼ばれる泉を見つけたの。トゥパク、あなたのその瞳のように、青く明るい色の泉よ。
私達インティにとって、地底より水の湧き出る全ての泉は、基盤たる地下世界と地上とを結び止める、聖なる柱に他ならない。最盛の王コリンカチャは、聖なる柱たるその泉に敬意を払い、低頭して、──その泉の不可思議に気づいたそうよ。コリンカチャがその泉を覗くと、そこに太陽の光輪を背負った男がいた。何羽もの黄金のコンドルを従えたその男は、コリンカチャに彼の未来を告げたの」
「未来を、」ヨセフが静かに口を挟めば、チュチャも神妙に頷いた。
「そう。ススル・プガイオはコリンカチャに、彼の未来を垣間見せた。コリンカチャが将来多くの国を従えることを教え、それと同時に、王家の祖先たる太陽の威光を忘れぬようにと告げたのよ。コリンカチャは泉の男に告げられたとおり、太陽の神殿を造り、祖先たる神々を
その一方でコリンカチャは、度々泉を訪れては、未来を覗き見、国をどう導くべきかを思案していたそうよ」
その時ふと、家の外から声がした。ワスカルが待っていた客が訪れたらしい。チュチャはちらりとそちらを見て、しかしワスカルが外へ出ていくのを見届けると、続けてヨセフにこう言った。
「泉の中の男は、太陽神の化身であったと言われているわ。その泉は神の泉。過去に行われたことも、これから起こることも、何もかもすべての事象が、そこには蓄えられていた。それでコリンカチャは、そこで得た未来の情報を、
チュチャの言葉を聞きながら、ヨセフはふと、その光景を思い描く。
月の光の煌々と、降り注ぐ静かな夜の森。ビルカバンバの麓の森は、しかし夜空の光を遮るかの如く深く茂っている。
そんな中を、一人の男が歩いている。太陽と月のモチーフを刺繍した、立派な衣服に身を包んだ男であった。顔の大きさほどもある金色の首飾りを身に着けた彼は、暗闇の中を危うげもなく進んでいく。鳥の羽音。男が腕を掲げれば、そこに光る鳥が舞い降りる。コンドル。黄金のコンドルだ。
(そうだ。チュチャは以前、コリンカチャが神からコンドルを授けられた話をしていたもの──)
黄金のコンドルが身じろぎすれば、その眩い光を映し出すように、男の足元にもすうっと光が広がった。それが青の泉、──知の泉、ススル・プガイオである。
「過去と未来を、全て蓄えた知の泉、……」
ヨセフが呟けば、チュチャが小さく笑ってみせる。
「そう。あなたみたいな知りたがりには、うってつけの泉よね。あなたがそこへ行ったなら、未来より過去を見るのかしら。過去を見て、それを白き人々の言葉で、紙に記録するのかしら。──それとも」
チュチャの目が、じっとヨセフを見つめていた。
明るい青にきらりと輝く、ヨセフのその双眸を。
「それとも未来を覗き見るの? いつ滅ぶともしれない、哀れなインティのこの先を」
チュチャの声の冷たさに、ぎくりと肩を震わせる。震えの理由が何であったのか、ヨセフにはしかし、わからなかった。
ただ彼は、じっとチュチャの目を見つめ返して、思うままに、こう問い返す。
「そんな泉があったとして、……そこに既に記された未来を、書き換えることはできると思う?」
「書き換える?」訝しげに、チュチャが眉根を寄せて聞き返す。ヨセフはごくりと唾を飲み、「実は」と彼女にそう告げた。
「君に話したいことがあったんだ。その、……信じてもらえるか、わからないけど」
言い淀むヨセフの言葉を、チュチャがじっと待っている。ヨセフはしばし逡巡し、小さく息を吸い込んで、──しかしそれを言葉にする前に、はっと扉を振り返った。
家の扉の向こうから、何やら、怒鳴りつける声が聞こえたのだ。
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