王を象る男の噺

屋敷を訪れた旅の詩人は、ある晩、幼いジラルドにこう告げた。貴方様はやがて、偉業をなされることでしょう、と。

王を象る男の噺-1-

「私の王はどこにいる。このグラエキアを統一する、才に秀でた私の王は」

 ぽつりぽつりと、呟いた。

 冷たい石壁に囲まれた、薄暗く狭い路地の内。襤褸ぼろのマントを身にまとい、白いものの混じったひげを伸び放題に伸ばしたその男は、ぐったりと石壁に寄りかかり、譫言うわごとのように繰り返す。

「私の王はどこにいる。私の王、私が仕えるべき王は、……」

 身体中がやけに痛んで、うまく力が入らない。この数日、熱が出たまま下がらないのだ。荷物の中にはいくらかの水と、固くなったパンが入っていたが、それすらも喉を通らない。

 追っ手の目をかいくぐり、ようやくここまでたどり着いた。だが視界はかすんでゆがみ、立つことすらもままならない。

(私はこのまま死ぬのだろうか。売国奴の汚名を着せられ、友に裏切られて、──こんなところで、ただ、惨めに)

 そう考えればまなじりに、熱いものがこみ上げる。ああ、まさかこのに及んで、まだ涙が流れようとは。

(随分と長いを見た)

 身の丈に合わぬ夢を見た。それだけだ。その夢がただ、終わるだけ。しかし目を閉じた彼の肩を、そっと揺さぶる力がある。

「あの、大丈夫ですか。……旅の方、どうか目を開けてください!」

 

 ***

 

「お前に私の財を譲ろう」

 病床の主人のその言葉を、ジラルドはただ静かに受け取った。

 そうなる予感は以前からあった。伯爵の位を持ち、若い頃には共和国フロレンティアの外交官を務めていたというこの男は、財も権力も持ち合わせていた。だが酷く偏屈で、老いて田舎に移り住んでからは、友人との交流もなく、五人いるという実子達とも疎遠であった。妻とは既に死に別れ、彼の面倒を見ていたのは、わずかながらの使用人達、そして奉公に訪れていた、当時十三歳のジラルドだけであった。

 にこりともしない老人であったが、ジラルドには十分に、この主人に愛されていた自覚があった。正確に言えば何が愛であるのかなど、ジラルドが理解できていたかと言えば難しい。だが少なくとも、この老人はジラルドの両親とは違い、彼の将来を案じ、教育を施し、貴族なりの礼儀を身につけさせようとした。

「都に家を買ってある。そこに移り住んで、学問の戸を叩きなさい。政治でも、天文でも、哲学でも何でもいい。お前の才能が最も輝くようになさい」

 グラエキア半島内に乱立する都市国家、そのうちの一つフロレンティア。芸術の国と呼ばれるこの小さな都市国家において、公証人の父を持つジラルドは、しかし平民の母を持つ妾腹しょうふくの子であった。

 貴族には違いない。だが実母に捨てられ、義理の母からは疎まれていることを、ジラルドは十分理解していた。フロレンティアの貴族の子は皆、幼いうちに実家を離れ、格上の有力貴族のもとへ奉公に出されることになっている。その慣例に則って、しかし田舎に隠居したこの気難しい老人の元へ送られたジラルドに、確かな将来などありはしなかった。

 この老人も、そのことは重々承知していたはずだ。だが彼は、才あるものの才が花開かぬのは、世界にとっての損失であると、何度でもそう繰り返した。それでジラルドに言ったのだ。自分の財を分け与えるから、それを使って、己の身を立てなさい、と。

 ジラルドは静かに頷き、「それでも、」と控えめに主張する。

「旦那様がご存命の間は、今までどおりお世話を続けさせてください。旦那様宛の手紙が届けば、それを読み上げる者が必要でしょう。返事の代筆もしなくてはなりません。旦那様のお召し物も、整えてさしあげる者が必要です……」

 こんなしおらしい事が言えたものかと、自分の言葉に苦笑した。老人もきっと、同じことを思ったのだろう。ジラルドに文字を教え、書物を与え、多くを学べと口癖のように言い聞かせてきたこの男は、しかしジラルドと目が合うや、震える指先でジラルドの頬を撫でた。

 撫でられたことなど、後にも先にも一度もない。驚いたジラルドは目を見開いて、しかしどうやら涙を拭われたようだと気づくと、その場へ棒立ちになった。ああ、自分は悲しいのだ。その事実にようやく気づいた。

「年寄りに気を使うことはない。私が死ねば、息子達が遺産を奪いにやって来よう。そうなる前にお前は、自分の分を受け取って都へ向かいなさい。そうすれば、無駄ないさかいにも巻き込まれずに済むだろうからな……。そんなことより、ジラルド、ひとつ思い出話をしようじゃないか。いつか旅の詩人が屋敷へ訪れた時のことを、お前は覚えているか?」

 「はい、旦那様」その時のことはジラルドにも、いまだ記憶に新しい。

 ある嵐の晩であった。背に楽器を背負った旅の詩人が、屋敷を訪れ一晩の滞在をうてきた。彼の吟ずる詩の代わりに、宿と食事を求めたのである。彼の主人は余興を好む人間ではなかったが、荒天を哀れに感じたのだろう。この時ばかりは詩人を屋敷に招き入れ、彼に部屋と十分な食事を与えた。

 食事を終えた詩人は、ちらとジラルドを見て、「では一曲」と詩を吟じ始めた。

 その音色の美しいこと。語りぶりの巧みなこと。余興など初めて目にしたジラルドは、あっという間に虜になった。

 

   詩人の口に語られまするは、全能の書の物語。

   弦よ、そのはじまりを歌いませ。

   人よ、その終わりを歌いませ。

 

 この詩人が吟じたのは、ある書物の物語であった。

 過去未来を問わず、この世の総ての歴史を記録する書物が、世界のどこかにあるという。ある者はそれを求めて世をさまよい、またある者はその力を以て、民から王へと成り上がる。幾人もの人生を、そして時代を語るその物語は、まるでそれ自体が物語に現れる全能の書であるかのように、ジラルドの心を震わせた。

「──よく覚えております。あの詩人の吟ずる物語は、見事でしたね」

 皺だらけの手に涙を拭われながら、ジラルドがおずおずと答えれば、老人は首を横に振る。「そうではない」老人は溜息混じりに言って、ジラルドの言葉を促した。

「もしや、詩人が語ったのことをおっしゃっているのですか」

「なんだ、覚えているではないか」

「そう簡単には忘れません。ですがあれは、きっと上手いことを言って、旦那様に気に入られたかっただけなのだろうと、そう思いますよ」

「つまらん子供だ、夢がない」

 ジラルドはつい、苦笑した。

 この数日後、ジラルドは病床の主人に別れを告げ、フロレンティアの誇る花の都へ旅立った。そうして馬車旅の途中、ジラルドは、自分がこの老人の養子として迎え入れられていたこと、この老人の姓を賜っていたことを聞かされたのである。

 ジラルドは、親に望まれぬ妾腹の子ではなく、大貴族の養子となった。

 勉学の好きな子供であった。よく学び、思考し、人と議論することを楽しむ子供であった。だが彼にはどうしても、ただ奉公に来ただけのこの子供に己の財産を分け与え、名すら与えた養父が、何故そこまでしてくれたのか、理解することは出来なかった。

(──夢、)

 華やかな都に迎え入れられながら、彼は不意に、養父のその言葉を思い出す。

──つまらん子供だ、夢がない。

 そうだ、ジラルドの養父は、夢を見たのではないだろうか。あの嵐の日に訪れた、詩人の口車に乗せられて。

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