鬼の棲まう窟の噺-8-
(王燕仙の名を騙り、しばし諸国を周遊した。今までには訪れたことのない土地に
目を
そうだ。『王燕仙』の短な旅は、──
「王妃様より言伝を承りました。『その名は役に立ったか』と」
「魯貴妃が? ……、一体どういう意味だ?」
丁重な口調で告げたその男に、眉を顰めて問い返す。しかし男は応えず、ただ、手にした刃を構え直すのみだ。これ以上のことは彼も知らないか、あるいは、説明する必要がないということであろう。
(大体、聞いてどうする)
どうせ今にも、
刃がぎらりと輝いた。しかしその切っ先が燕仙に届く、その直前に、
「──燕仙! 馬鹿野郎、なに突っ立ってんだ!」
場に響いたその声に、燕仙ははっと息を呑む。
旬の声だ。何故旬が、こんなところにいるのだろう。咄嗟に掲げた火にそれを見て、燕仙は青ざめた。旬がその手に持つ物が何なのか、すぐに理解をしたからだ。
(……弁当、)
燕仙が忘れたそれを見て、届けてくれようとしたのだろう、──。だがそう思う側から、右肩に走った鋭い痛みに、燕仙は大きく悲鳴を上げた。男の
「燕仙、しっかりしろ、……燕仙!」
視界がぐらつき身体が揺らぐ。その場にどしりと座り込み、燕仙は駆け寄ってくるその人影に、「来るな!」と短く怒鳴りつけた。
旬の声に反応したせいで、刃の軌道がずれたのだろうか。すぐ死に至る傷ではないと思えたが、ぱっくりと裂けた傷口からは、止めどなく血が流れ出る。「邪魔が入ったな」と呟く声を聞き、燕仙は短く息を呑んだ。男の持つその刃が、旬へ向いたことに気づいたからだ。
「旬、……!」
腹の内から声が出た。痛みのことなど忘れていた。この身の
血に塗れた燕仙の手が、床に落ちた何かに触れた。それが一体何であるのか、確認するような暇はない。しかし燕仙の意識は、その正体を判じていた。
巻物だ。この窟の床に置きざりにされた、何とも知れぬ巻物が、──燕仙の指先に触れた。
同時に。
視界に走ったその風景に、はっと短く息を呑む。燕仙には、僅かな火に灯されるのみであるはずの、その場の総てが見えていた。
(この場の総て? 違う、これは、……)
目に映る総ての物が、目まぐるしく移り変わってゆく。一体何が起きたのだか、すぐには理解できなかった。長く住んだ
(私は、何を見ているのだ?)
先の尖った背の高い城。見たこともない木々の生い茂る森に、不思議な色の鳥が飛ぶ土地。これは何だ。必死にそう問いかけるのに、
「あの少年は、私の放った刺客に刺されて死ぬでしょう。可哀想にね。魯華思、あの子はお前の巻き添えになって死んでいくのよ」
聞き覚えのある声がした。慌てて周囲へ視線を向けても、求める姿は見られない。しかしこの声は間違いなく、──妹、魯貴妃のその声だ。
「だけど、お前が嘆く必要はないの。その少年のちっぽけな死すら、その事実は既に書かれているものなのだから」
──世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?
──いいや、それに限らない。例えば今日、私とお前が出会ったことすら、そこには既に書かれているんだよ」
得意げに言ったあの言葉が、彼女の耳に響いていた。過去の声。恐らくそこに、記された声。
「……阿国年代記」
思わず小さく、呟いた。
「そう、おまえ達がそう呼ぶ物。──そのごく断片、数多ある見え方のうちのひとつ」
魯貴妃の声が、また言った。
「気にすることは何もないのよ。お前が救えなかった王燕仙のその死ですら、既に記された歴史の末端であったのだから。……ねえ、魯華思。その言葉を聞きたかったのでしょう? お前はそうして罪悪感から逃れるために、その書を探していたのでしょう?」
女の細いその指が、そっと燕仙の頬を、──魯華思の柔いその肌を、引き裂くようになぞっていく。華思は、それに応えなかった。
魯貴妃の言葉は確かであった。その為に彼女はここへ来たのだ。救えなかった友の名を騙り、友の望みをなぞるようなふりをして、……心の中ではずっと、ずっと、
しかし。
「そこをどけ」
「何故」
「お前と問答している暇はない!」
そして今、彼女が守らねばならぬ、一人の少年の姿である。
脇目もふらず、しかし一点を目指してゆく華思の背後で、魯貴妃はぽつりとこう言った。
「おや、お前はそちらの未来を選ぶのかい。お前の中にそれ程の火があろうとは、私は思いもしなかった」
からかうようなその声音は、確かに魯貴妃のものである。間違いようもない、妹のその声である。しかし。
「まあそれでこそ、待った甲斐があったというもの。友の死を経てその名を奪い、私を探したお前だもの。いずれ本当の名を取り戻す時、なにか面白いものを見せてくれやしないかと、少し期待をしていたんだ。──どちらを選んだにしても、構わないさ。どうせどちらの未来も、既に書かれているのだから」
ぷつりと視界が、闇に落ちた。
(……、違う)
違う。闇に落ちたわけではない。彼女の目の前には、恐怖に怯える旬の顔が迫っていた。
「旬!」
叫びに近い声を上げ、この少年のまだ幼い身体を、全身で抱きしめる。何の咎もないこの少年を、兇刃の餌食になどさせやしない。この身が盾になればいい。しかし震える身体で旬を抱きしめ、強く目を瞑った彼女のすぐ背後で、
男が叫び声を上げた。
慌ててそれに振り返り、そのまま動ぜず、息を呑む。先程まで刃を向けていたあの男が、今は真っ赤な炎に包まれて、断末魔の声をあげていたのである。
燕仙が蝋燭に灯していた、あの火が燃え移ったのだろうか。身の毛もよだつその声に、咄嗟に手を出し、旬の頭を抱きしめる。耳を塞いでやれたらいいと思うのだが、先程切られた右の腕が、意志に反してあがらない。
「燕仙、お前、腕から血が、……」
「私は大丈夫。私は、──私は」
震えを隠せずそう答えながら、燕仙は己の置かれた状況を判ずることが出来ないまま、ただ、崩れ落ちる男の姿を眺めていた。
そちらの未来を選ぶのか、と、魯貴妃は彼女にそう言った。ならば今ある現状が、燕仙の選んだ未来であるということだろうか。旬を助けるその代わりに、命じられてこの地へ赴いたのであろう、名も知らぬ男を犠牲にした、この現状が。
嫌悪感を覚える臭いを発しながら、
「阿国年代記、……宇宙の書、そのごく断片」
ぽつりと小さく、そう呟く。肩で息をする燕仙の脳裏には、明るい女の笑い声が響いていた。
──命の短い生き物は、かくも忙しく変化する。ああ面白い、面白い。
***
「それじゃ、みんな元気でな」
そう言い手を振る旬の姿に、修験者達も微笑んだ。この少年を己等の窟から追い出した過去を持つ彼らは、この旅立ちをどう受け止めているのだろう。しかしこちらを振り返った旬の表情を見て、華思は、無粋な考えを改めた。
「行こうぜ、燕仙。……いや、行きましょう、華思師匠」
わざとらしく言い直したこの少年は、文句の付けようもない、旅立ちに相応しい笑顔でそこにいる。華思もそれに頷くと、穏やかに微笑んだ。
「まずはどこへ行く? このまま西へ流れるか、それとも南へ下っていくか」
「どちらにせよ、
何度目かのその問いに、「くどい」と思わずそう返す。
あの日、──六十窟の奥で刺客に命を狙われたあの日から、既にまた、半年近い月日が流れている。負った傷は出血量こそ多かったものの、命に関わるものではなかった。右腕は以前ほど自由に動かすことこそ出来なくなったが、腕ごと切り落とさずに済んだ分、良かった方だとそうも思える。傷の手当てをした医者には、根気よく動かし続けていけば、多少は、動きの自由さも取り戻していけるだろうと言われていた。
そうして華思は、旅立ちを決めた。
──友の死を経てその名を奪い、私を探したお前だもの。いずれ本当の名を取り戻す時、なにか面白いものを見せてくれやしないかと、少し期待をしていたんだ。
不思議な刹那の夢の中、聞き覚えのある妹の声は、──妹を模したその声は、華思に対してそう言った。
あれら全ては本当に、魯貴妃の言葉であったのだろうか。あの不思議な体験は、今となっては夢であったか、
「せっかく馬を買ったんだから、ほら、師匠が乗ってください。俺が手綱を引いていくから。ああ、その前に荷物を貸して。その右腕じゃ、乗せられないでしょう」
率先して世話を焼こうとする旬に、思わず小さく吹き出した。「お前、私なんかについてきて、本当に良かったのか?」と問えば、この少年は華思をちらと睨み付け、「それこそ、くどい」とそう言った。
「ついていきますよ。俺は、魯華思の弟子だから」
堂々と言うその言葉に、華思もやれやれと頷いた。
旅立ちの際、旬は岸壁に絵を描いた。光雲母神の傍らに立つ、優しげな鬼の絵であった。
── 『鬼の棲まう窟の噺』 完 ──
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