鬼の棲まう窟の噺-7-

「行ってくるよ、旬」

 燕仙が手を振り外へと出れば、旬はまるで学舎で師を見送る生徒のように、ぺこりと頭を垂れてみせた。賢い子だ。どこからでも学びを得て、日々に活かそうと努力する。燕仙自慢の、強い弟子だ。

(緑根譚は処世術を学ぶのに良いかと思ったが、次はもう少し、実学的なものを教えても良いかもしれないな)

 そんな事を考えながら、もう随分と慣れた鵺岩窟やがんくつの岩場に入る。旬との生活を送りながら、しかし燕仙は、己がこの地を訪れた、当初の目的を忘れてしまったわけではなかった。

 阿国年代記。──宇宙の書。夢物語のようなその書物の存在に執着するわけではなかったが、しかし様々な年代の修験者達が銘々に彫り、その内に一つ一つの宇宙を内包するこの鵺岩窟は、彼の書の隠される土地として、確かに適切であると思われたのだ。

が戯れに語った夢を追い、……私は今、ここにいる)

 そう。年代記の噺は恐らく、彼にとってはただの戯れにすぎなかったことであろう。今も存命であったとして、彼は本当に夢物語の書物を追って、こんな所へ赴いただろうか。

(わからないな。案外、何を考えているやら腹の読めない男であったから。……)

 ここにいると否が応にも、本物の『王燕仙』を思わずにはいられない。

(燕仙の処刑の日、私は堪えきれずに刑場へと赴いた)

 そこで最期に、燕仙に会った。

 己を死に追いやろうとしているのが、の実の妹であることを、燕仙は承知していたはずであった。またそれと同様に、魯貴妃の罪を暴き立てれば、の立場が危うくなることも、この男は理解していたのだ。

 それでも彼は、正義を貫こうと行動した。だからに、燕仙を恨む気持ちはない。正しいのは彼の方だ。我が身可愛さに友を救わぬ魯の女に、燕仙を恨む権利など、存在するはずがなかったのだ。

 友。

 そも、彼は友であったのだろうか。刑場に発つ燕仙を見て、彼女は己に問いかけた。

 腫れ物のように扱われ、いつも独りで居た自分と、彼とは大きく違っていた。誰にでも明るく気さくに話しかける彼は、いつだって多くの人に囲まれていて、──彼女はただその大勢の中の、たった一人にすぎなかった。

──その方、本当にお姉様のだったのかしら?

 けれど。

 処刑の日。仲間と共に引っ立てられ、刑場に姿を現した燕仙は、──処刑の様子を一目見ようと群がった民衆の中から、確かにを見いだしていた。

 目があった。それは確かなことであった。きっと燕仙は、彼女のことを恨むだろう。妹の不正を見ぬ振りして、己の身の安全を図る彼女のことを、きっと軽蔑するだろう。そう考えていた。それなのに。

 燕仙は彼女の方を向き、ふと明るく微笑んで、声なき声でこう呼んだ。

魯華思ろかし

 それが彼女の名であった。

 彼の唇が柔らかくその名をかたどった、その直後。本物の『王燕仙』は、その胸に刃を突き立てられ、絶命した。

「──おや、燕仙先生。今日も石窟の調査ですか」

 鵺岩窟の岩場の路で、馴染みの修験者に挨拶をする。今日はいささか、奥まで立ち入ってみようと思うと燕仙が言えば、修験者もそれに頷いた。

「そういえば、……第六十窟の横穴の奥に、新しい石窟が見つかったという話は聞きましたか?」

 問われて、燕仙はきょとんとしたまま首を横に振る。ここの石窟は、自然の窟を利用して、修験者達が次々と掘り進めているのだとばかり思っていた。そんな中、という事があるのかと、純粋にただ驚いたのだ。

 燕仙のその表情を見て、修験者はこう解説した。

「鵺岩窟の石窟は、何百年もの歳月を掛け、その時々の人々の手により作られてきたものですからね。その中の幾つかは、内部を塑像そぞうや壁画で飾られながら、しかし入り口をすっかり閉ざされ、隠されてしまったものもあるのですよ」

「隠す? 何故、そんな事を」

「一概には言えませんが、この辺りも、古くは宗派間のいさかいが激しかった土地ですから……。敵対勢力に見つからないよう隠したとか、きっと、そんなところでしょう。まあ、今回見つかったその窟には、作りかけの祭壇があるのみだそうですから、制作の途中で不要になり、忘れられただけかもしれませんが」

 そういうものかと相槌を打ち、燕仙は今し方聞いたばかりの六十窟へ、素直に足を向けることにした。

 人の手により作られながら、入り口を塞がれ、長く存在を忘れられていた石窟。内部の様子は知れないが、何やらやけに、興味が湧いた。しかしそうして歩く内、ふと気づいたことがあり、燕仙は短く息を吐く。

(折角包んで貰ったのに、そういえば、弁当を忘れてしまったな、……)

 帰ったら、きっと旬に叱られる。だが元はと言えば、出がけにあの少年が、慣れぬ事を言って燕仙を戸惑わせたのがいけないのだ。

「……師匠、か」

 思わずそう呟いて、六十窟に蝋燭の火をかざす。そういえば、この窟を訪れるのは初めてのことであった。この二ヶ月の滞在で、数多ある窟にも、それぞれの特徴があることはわかっていた。広い窟、狭い窟、天井に穴が開いた窟。その内部を彩る壁画や、塑像の様も色々だ。それらと比較すると、この六十窟は比較的広く、内部の装飾は簡素であった。

 こつこつと、燕仙の足音が薄暗い窟に反響する。件の窟は、横穴の奥と言っただろうか。それらしき横穴を見つけ、燕仙が奥へと足を踏み入れると、確かに先にも空間がある。蝋燭の火を掲げ直し、細い横穴を進んでいき、──ふと、ぽかりと場が拓けたのを見て、燕仙は湿った空気を吸い込んだ。足元に岩が散らばっている。恐らくこれが崩れたために、この新しい石窟が発見されるに至ったのであろう。

(中には、作りかけの祭壇があるだけだと言っていたな)

 確かに火を翳してみる限り、目新しい物はなさそうだ。壁に顔料がんりょうの跡はなく、岩を積み上げられた祭壇も、あまりに質素な出来映えである。しかし元来た道を戻ろうとして、燕仙はふと、足を止めた。

 足元に、何かしらの影がある。──巻物だ。新しいものと見えるから、誰か最近、この窟を訪れた人間が、落としていったものだろうか。しかし燕仙が身をかがめ、それを拾い上げようとした、その瞬間。

「魯華思様」

 彼女の本名を呼ぶその声に、ぎくりと背筋を震わせる。咄嗟に声へ火を翳せば、そこに一人の、男がいた。

 闇に融ける黒装束。目許だけが覗くそれを纏った見知らぬ男は、燕仙の前に立ちはだかり、彼女が窟の外へと向かうことを許さない。男のその手にぎらりと光る刃が握られているのを見て、燕仙は額に汗を浮かべ、それでもにやりと微笑んだ。

(ついに、来たか、──)

 死んだ王燕仙の名を騙り、一処ひとつところに居続けた。いずれ追いつかれる。そうとわかっていたことだ。恐らく彼は魯の家か、あるいは魯貴妃の差し金で、ここへやってきたのだろう。

 魯の家を棄て裏切った、彼女の命を奪うために。

「今まで一体何をしていたのだ。ちっとも姿を見せないから、私を殺しに来てはくれないのかと、心配してしまったではないか」

 泰然自若とした態度を、崩さずに済んでほっとする。どうせここで殺されるなら、無様ではなく死にたいものだと、そう思った。既に覚悟は出来ている。彼らが彼女を殺害しようと目論むのなら、彼女には抗う手段がない。

(いや、違うか。私には、……彼らに抗う、理由がないのだ)

 名門である魯家に生まれ、その富の中で生きてきた。器量の良い妹と比べられ、虐げられていたとしても、彼女は結局、家の名前に守られていた。幸いなことに勉学だけは得意とするところであったものだから、家の名に国家試験通過という付加価値を付けることにして、必死に己の立ち位置を確保してきたのだ。

 官僚になったことも、宦官かんがんとして男達と肩を並べて仕事をしたことも、けっしてそれ自体を切望したわけではない。ただそれしかなかったから、そうすることがせめて正しいはずだと信じて、ここまでずっと生きてきたのだ。

 けれど。

──眉唾物のはなしばかりと言ってくれるな。世の中にはまだまだ、俺達が思い描いたこともないような、面白いものが沢山あるはずだ。それを探して見もせずに、「あるわけない」なんて切り捨てるのは、勿体ないことだと思うぞ。

 己の好きに生きようとする、ある人間の熱に、あてられた。

 彼をうしなったその時に、心に火が灯ったのだ。それは初めてのであった。どうすることが正しいか、どう考えるのが賢いか、打算的なそれまでの価値観が、がらがらと崩れる思いがした。

 行ってみよう。この男がいつか、見てみたいと言ったものを見るために。探してみよう。荒唐無稽な夢物語の内にある品を。そうした後に、何が残るかわからない。何も残らないかもしれない。けれどこれまでに生きてきた、魯華思という不格好な女を一度すっきりと脱ぎ捨てて、──ただ、その心に灯った思いのままに行動する、一人の人間になってみようと、その時確かに思ったのだ。

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