鬼の棲まう窟の噺-6-

 ***

 

「おい起きろ、朝だぞ。今日は緑根譚りょくこんたんをやるんだろう。燕仙、──燕仙!」

 綿の入った半纏はんてんで顔を叩かれて、寝ぼけまなこを両手でこする。うっすらと目を開けてみれば、たすき掛けをした李旬が、せっせと雨戸を開けているのが見て取れた。

(朝か、──)

 懐かしい夢を見た。眩しい光に目をつむり、しかし射し込む陽光に、致し方なく身体を起こす。まださらしを巻いてすらいない胸元をぼりぼりと掻いていると、燕仙が女であることを既に知っている旬は、呆れた様子で、「少しは恥じらえ」とそう唸った。

 燕仙が鵺岩やがんを訪れてから、既に二ヶ月が経過した頃のことである。二ヶ月。官職を辞し家を出て、大した宛もなしに放浪したこの一年半の中、最も長い滞在となった。ふと外へと視線を移せば、窓の向こうには木々が青く茂り、夏虫が声を響かせている。

 滞在補助があるのをいいことに、長くこの地に留まっている。これまでは、捨て置いた実家からの追手の目を恐れ、一処ひとつところに長く滞在することはしなかった。だが、今回ばかりは別である。

──前に話した、『宇宙の書』のこと、覚えてるか? 俺はひょっとして、彼の書は鵺岩窟のどこかに秘められているんじゃないかと踏んでいてね。いつか彼の地に赴いて、真偽を確かめようと思っているんだ。

 宇宙の書。全能の書、──阿国年代記。彼はこの地、鵺岩にこそ、その書があるのではないかと、そう言った。

 ふと、この町を訪れたその日に起きた、瓦の騒動を思い出す。あの時燕仙は、あれはきっと、実家の放った追手の仕業であろうとそう考えた。真偽はわからぬ。実際、あれから二ヶ月の間なんの動きもないことを考えれば、あれはやはり偶発的な事故であったのかも知れなかった。

 しかし。

が夢を語ったこの地へ訪れて、ここでようやく、──私も裁いてもらえるのだと、少し、期待をしてしまったのに)

 旬が押し付けてきた衣を受け取り、手早くそれに着替えを済ませた。いつもの通り、胸にはきつくさらしを巻き、髪をきっちりと結い直す。顔を洗って鏡を覗けば、そこにはまるで洒落っ気のない、地味な小男の姿があった。

の後、私は警吏から奪っておいた燕仙の身分証を持ち、魯家を棄てて旅に出た──)

──この処刑は、お姉様のためでもあるのよ。

 形の良い唇で、当然のように語った妹の言葉に、反論することができなかった。それは確かなことであった。女の身を宦官かんがんと偽り、それで官職に就くことができていたのは、全て家の名あってのことだ。その家の名が地に落ちたなら、──彼女の行き着く先など、知れていた。

(我が身可愛さに友を見捨て、己を恥じて家を棄てた。そうして、)

 今は根のない草となり、宛もなく、友の遺した荒唐無稽な夢想を追ってここにいる。

「なあ、燕仙。支度はできたか?」

 衝立ついたての向こうから声をかけたのは、旬である。この二ヶ月の間、なんだかんだと文句をたれながらも燕仙の世話役を続けた彼は、今ではすっかり仕事にも慣れ、また燕仙がたわむれに教えた王道四書の一部を、そらんじてみせるほどになった。

 もともと賢い子であった。燕仙の身の回りの世話だけでは持て余している様子であったので、ふと思いつき、学問に興味があるかと試しに問えば、彼は躊躇ためらいがちに頷いた。櫻嵐おうらんでは百姓の息子であったという彼は、文字を知らず、教育らしい教育を受けたことは一度もなかった。だが彼は文盲ながらの特技にして、見聞きしたことを記憶にとどめることに長け、算術でも読み書きでも、教えたことはするすると、その身の内に吸収した。

 下絵の仕事をうしなった以上、燕仙がこの町を去ることになれば、旬はまたたった一人、この町で生きてゆかねばならないことになる。だがその時が来たとして、学があれば、身につけたその財があれば、この子はきっとたくましく生きてゆけるだろう。燕仙は、そう考えたのだ。

「せっかちなやつだな。いいぞ、そろそろ始めよう。昨日言った本は、借りられたか?」

「ああ、勿論。『緑根譚』、これであってるよな? 緑という字しか読めなかったけど、でもこの最後の文字は、前に読んだ四牙譚しがたんの最後の文字と同じに見えるし、多分これだと思ったんだけど……」

「おや、官吏に頼まず、自分でその本を見つけたのか?」

 燕仙が問えば、旬は自慢気に胸を張って、頷いた。本を借りてくるようにと言いつけてあったのだが、膨大な量の書物が置かれる役所の書架から、己の目で見て目的の本を見つけてくるとは恐れ入った。

──俺に色々と、学をつけてくれた師匠がいたんだ。

 昔、が語った言葉を思い出す。田舎出身の叩き上げだと己を称した彼も昔、故郷で師となる人物に出会い、そこで学問という世界の入り口に立ったのだと言っていた。

の師も、私と同じような思いであったのだろうか)

 書物を広げ、手ほどきを受けながらそれを読み下していく旬に微笑んで、そんなことを考える。

(旬もいつか、燕仙がそうであったように、──独り立ちして、ふとした時、私のことを思い出してくれるだろうか──)

──もし李旬を気に入ったなら、連れて行ってはくれないか。あの子はまだ、母親代わりになる人間が必要な年頃だ。

──鵺岩窟に、既にあの子の居場所はない。

 修験者の言ったその言葉に、頷くことはできなかった。

 官職を辞し、魯家を棄てた彼女の行動を、妹はきっと裏切りであると認識しただろう。魯家の名に泥を塗った。まだいたいけな王太子の命を奪ってまで、魯貴妃が守ろうとしたものを──。恐らく追っ手がかかっている。いつ何時、どんな事態に見舞われるかも知れぬ身の上だ。そんな不安定な身元の己が、なにも知らぬ旬の身柄を引き取ることなど、一体どうしてできようか。

(大体、私が『母親』などと)

 考えるだけで笑ってしまう。

「旬。その項までを読み終えたら、弁当を包んでくれないか。私は今日も、鵺岩窟へ行ってくるよ」

 燕仙が言えば、旬は視線を本に落としたまま、上の空で返事する。とはいえ仕事はきちんとこなすのが、この世話役の常であるのだから、放っておいても問題なかろう。麻衣あさぎぬを羽織って一通りの身支度を調え、靴を履く頃には、やはり玄関に弁当の包みが出来ていた。

「燕仙、あの、……」

 戸に手を掛けた燕仙に、語りかける声がある。ふと振り返れば、緑根譚を手にしたままの旬がそこに立ち、視線を合わせずもじもじと、なにかを言い淀んでいた。

「どうした。……小便にでも行きたいのか?」

「ちっ、違えよ! そんな用件で、呼び止めるわけないだろう!」

 顔を真っ赤にして言う旬に、思わず小さく吹きだした。そんな燕仙の様子を見た彼は、悔しそうに一度足踏みをして、──しかし不意に燕仙のことを睨み付けると、「行ってらっしゃい」とそう言った。

「行ってらっしゃい。……、燕仙師匠」

 師匠。

 唐突に発せられたその言葉に、思わず大きく、瞬きした。この小生意気な少年の口から、まさかそのような単語が飛び出してこようとは。

 燕仙が何も言い返さずにいるのを見て、旬が再び床を蹴る。「俺がそう呼んじゃ、悪いかよ」と告げるその顔には、羞恥で紅が浮かんでいる。

「お前は俺に学問を授けてるんだから、その、だって、俺にとっては師匠だろ」

「……、お前ったら図々しくも、私の弟子のつもりでいたのか」

 あえて意地悪にそう言えば、旬が真っ赤な顔のまま、焦った様子で燕仙を見る。それを見た燕仙は、にやける顔を隠しきれずに、つい旬に向けて手を延べた。

「冗談だよ。……お前みたいな、賢くて、気が利いて、それに面白い弟子に出会えて、……ああ、私は幸せ者だな」

 居場所を持たない旬の姿に、いつしか己を重ねていた。王燕仙に救われた己のように、今度は、王燕仙に成り代わった己自身が、この少年を救えればいいとも思っていた。だが一方で、深入りしてはならないのだと、己を戒め続けてきたのに。いついなくなるともわからぬ身の上で、情を残すべきではないことなど、重々承知をしていたのに。

 ああ、ああ、──もう愛しさが、募ってしまった。

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