鬼の棲まう窟の噺-5-

 ***

 

「なあ、こんな話を知っているか? 中原を抜けた西域に、面白いものがあるらしいぞ」

 懐かしいその声に、はっとなって顔を上げる。見慣れた屋敷、見慣れた中庭。現実には失われた、あるはずのない穏やかなかげ。それが夢であることは、すぐに理解のあるところであった。

 そうだ。既に喪った景を求めて、わざわざ彼の地へ赴いたのだ。そう考えればあの頃のことを思い返してしまうのも、無理からぬ事であろう。夢の中、すらりとその場へ立ち上がったは、穏やかにその声を受け入れた。

廖賀りょうがの皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍ひごの高僧が望んだ救世のすずとも肩を並べる代物だ。どうだ、詳しいことを聞きたいだろう、気になるだろう」

「また、いつもの夢物語か? まったく、お前はそうやって、眉唾物の噺ばかりを並べたがる」

「まあそういうな、勉学の好きなお前のことだ。今回ばかりはこれを聞いたら、目を輝かせるに違いない。『阿国年代記』と呼ばれる、全知の書物の噺だぞ。その書物には、遠い過去から未来まで、総ての事象が事細かに記されているらしい」

 彼はそうして、現実にはおよそありえないような物事を、語って聞かせるのが好きな男であった。だが彼女がその話に付き合ってやったのは、けっしてその類の話に興味があったわけではない。ただ単に、仕事以外で彼女に話しかけるような奇特な人間は、彼の他にいなかった。だから暇を持て余して、この男の語る荒唐無稽なはなしに耳を傾けていたのである。

「──妹はあんなに器量良しなのに、お前と来たら多少勉強ができるばかり。女が学問などしてどうするの。見目も悪ければ、刺繍も作詩もできやしない。魯家の恥と思いなさい」

 幼い頃から彼女は、女のするべきとされるおおよそのことに、なんの感心も得られない類の人間であった。骨をゆがめながら小さな靴を履き、外には出ず、白い肌を美しく磨いて、やがて己の立場を確立すべく、男の元へと嫁いでいく──。それは彼女の求める生き方ではなかったが、しかし周囲は己の道を歩もうとする彼女のことを、赦そうとはしなかった。

 特に彼女を責めたのは、彼女を産んだ母である。母は度々、彼女とその妹とを比較して、彼女のことを貶めた。それを間近に見ていた妹も、そのうち母を真似るようになり、美しい指で彼女の頬をなぞりながら、昏い声でこう言った。

「醜いお姉様。わたくし程の美しさがなくたって、魯家の名さえありお母様に気にいられていたなら、良家に嫁ぐことも出来たでしょうに。薄暗い書庫や庶民の集まる町中に、一体どう心を奪われたというのかしら」

 学びを得たいと望む彼女のことを、理解しようとする人間はいなかった。彼女の妹が後宮に入ることが決まると、それは尚更悪化した。

「まあせいぜい、わたくしの足を引っ張るような真似だけはしないでくださいね。お姉様」

 最早実家に居場所はなかった。しかし独りで生きてゆくための宛もなかった。それで彼女は奮い立ち、官僚になり己の力量で立身出世するために、男に混じって、国家試験を受けたのである。

 彩国で立身出世を望もうとする男なら、誰もが目指す難関の試験に、彼女は一度で合格した。彼女が女であることは、公然の秘密であった。しかし頭脳明晰な彼女の能力が買われ、また実家の家名に守られたことで、彼女は女ではなく宦官かんがんであるという名目を得て、己の立場を得たのである。

魯貴妃ろきひが子を身籠ったそうだ」

「もしこれが王子なら、魯家の繁栄は約束されたも同然だな。老年の王はすっかり魯貴妃に心を奪われて、今は彼女の言いなりだとか」

「だが、もう時期五つになる王太子がすでにいるだろう。あれがいる限り、魯貴妃の子は王にはなれまい」

 後宮に入った彼女の妹もまた、己の戦場いくさばでその辣腕らつわんを振るっているようであった。いつしか魯貴妃とまで呼ばれ、王の寵愛を一身に受けるようになったのだ。

 だがそれに比例するかのように、姉である彼女は誰からも、れ物に触れるかの如き扱いをされるようになっていた。女の身でありながら官吏として役職につき、その妹は後宮を牛耳る王の寵妃。迂闊に関わりたくはないだろう。周囲の思惑は彼女にとっても、よく理解のあるところであった。出世の道具にしようと声をかけてくる者はいたが、彼女もそれを、適当にあしらった。

 実家を出、己の足で世に踏み出した。しかし結局彼女は、誰にとっても扱いにくい、邪魔者でしかなかったのである。

 そんな時分に知り合ったのが、であった。

「おお、お前さんが噂の、女宦官か」

 その男があまりに自然に話しかけてきたのを見て、彼女はただただ純粋に、驚きを隠せないでいた。しかし答えを返せずにいた彼女に、この男は笑顔で、他愛もない世間話を始めたのである。

「俺も宦官だ。まあ家柄の良いお前さんと違って、田舎出身の叩き上げだけどな。名は、。お前は? 魯貴妃にちなんで『魯貴ろきがん』なんて渾名あだなされてるみたいだが、本名は、なんていうんだ?」

 人懐っこい男であった。損得を考えない、真っ直ぐな気性の男であった。人に愛され、誰とでもすぐに打ち解けることができる。その性質を、何度羨んだことかわからない。

 彼にはいくらだって他に友人がいるのに、荒唐無稽な噺を仕入れる度に、それを語って聞かせに来てくれるのは嬉しかった。いつしか友になっていた。だが彼女はそんな燕仙を、──救うことができなかった。

 鴻嘉こうが六年冬のこと。凍てつくように冷えるある日の朝、彩国の王太子が息を引き取った。風邪をこじらせ、肺を病んだ末の死であった。しかし王室がそう公表したところで、都にはまことしやかに、ある噂が囁かれるようになる。王子を出産した魯貴妃が、己の子を王位に立たせるため、──第一王位継承権を持つこの王太子を、亡きものにしたのであろう、と。

 噂は事実であったろう。少なくとも、彼女は今でもそう思っている。だが事実が明らかにされることは終ぞなかった。事の次第を明らかにしようと動いたものは皆、──正妃の座に上り詰め、より強固な権力を掌中に収めた魯貴妃の手で、刑に処されてしまったからだ。

 人望の厚い彩王けいの治世の内、歴史に汚点を残す事件であった。魯貴妃を王太子殺害の犯人であると糾弾したものは皆、魯貴妃の手により死刑を言い渡されることとなったのだ。

 そうして処刑される者の中には、彼女の友、──の姿もあった。

 処刑の前日、なんとかして燕仙を助けようと、彼女は数年ぶりに妹の元を訪れていた。てっきり門前払いをされるかとも思っていたが、そういうことにはならなかった。魯貴妃は数年ぶりにまみえる姉を己の部屋まで招き、しかし有無を言わさぬ笑みを浮かべて、彼女に向かってこう言ったのだ。

「この処刑は、お姉様のためでもあるのよ。あの者達はあるはずもない陰謀論を声高にうたい、わたくしをおとしめようとした。わたくしを貶める行為は、すなわち魯家の名を貶める行為。わたくしが私情をもって王太子を殺害したなどと吹聴ふいちょうする輩を許してしまっては、──お姉様だって、ようやく勝ち得た今の居場所を、失うことになるのですよ」

 「それに、」と魯貴妃はこう続けた。「お姉様の言うそのご友人、……その方だって、己の行為がお姉様の立場を失わせる類のものだと知っていたはずでしょう。それでも他の者らと共謀して、わたくしに罪を着せようとした。ねえ、お姉様」

 美しい妹のその唇が、艶やかに輝いていた。

「その方、本当にお姉様のだったのかしら?」

 言い返すことは出来なかった。

 刑は結局、魯貴妃の思惑通りに実行されたのだった。

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