鬼の棲まう窟の噺-4-

 この窟はけっして広くない。人が十人入れるかどうかという空間であるが、その奥には訪問客を出迎えるかの如く、立像が五つ立ち並んでいる。中心に立つは、衆生しゅじょうを悟し極楽浄土へ導くと聞く光雲母こううんも神。その脇には人々の生前の罪を暴く蓮秤れんびん神と、愛を与える施法せほう神が。更に外側には極楽の門を守ると聞く二柱の神、左慶さけい神と右賀うか神が控えている。

 凛とした目でこちらを見る、光雲母神の面差しの、なんと優しいことだろう。穏やかな顔料で色づいたその立像は、訪れる者の目を奪う。だがこの立像の視線は来訪者にのみ向けられるものではなく、部屋中に描かれた緻密な壁画にこそ向いている。壁、天井を問わず描かれるその壁画が示すのは、──日々を暮らす、人々の画だ。

 荘厳な建物の並ぶ都の絵、連なり進む人々の絵。火焔を背負う焦怒せうど神の足元に立つ人々は、今にも戦いに赴かんと言うばかりの形相だ。

「立像の足の組み方、……これは極西、羅馬らかの様式か? 羅馬との交易は海を通してのみ行われているとばかり思っていたが、陸路でも交流が行われているのか、……」

 まさかこんな風景が、外から見えたあの無数の窟の中に、それぞれ収められているというのだろうか。

──西域にある、鵺岩窟やがんくつってのを知ってるか? 八百万の神々が祀られる、それはそれは霊験あらたかな場だそうだ。なんでも数万の昔、その地を訪れた仙人が開いた山だとかで、……おい、人の話は最後まで聞けよ! 今度は夢物語じゃない。実際に存在する場所の話だ!

 そう食い下がった、の言葉を思い出す。

──それぞれの窟に神と、それに導かれる世界の縮図が描かれているのさ。前に話した、『宇宙の書』のこと、覚えてるか? ああ、結局そういう話になるのかって? まあいいじゃないか。俺はひょっとして、彼の書は鵺岩窟のどこかに秘められているんじゃないかと踏んでいてね。いつか彼の地に赴いて、真偽を確かめようと思っているんだ。

 蝋燭をそっと足元に置き、燕仙は知らずのうちに、己の両手を虚空こくうに向かってべていた。旬の案内した、この石窟の壁は高い。燕仙が手を伸ばしたくらいでは、岸壁はまだ遙か遠い場所にある。それでも。

 何のためにこの地を訪れたのか、と、旬は燕仙にそう問うた。探し物。そうだ、それも嘘ではない。燕仙は、この地へ宇宙を探しに来たのだ。

 夢見がちなある男が語ったその書を求めて、──そして全能のその書物に、

 己の罪を暴かれるために。

 「おい、おっさん」窟内の景色に魅入り、黙り込んでしまった燕仙を見かねたのだろう。遠慮がちに旬が声をかける。燕仙はそれにはっとなり、慌てて彼を振り返ろうとして、──

「李旬! お前……、ここで、一体何をしてる」

 責め立てるようなその問いに、思わずきょとんと瞬きした。

 見れば窟の入り口に、数人の男が立っている。法衣を身につけていることから察するに、どうやら噂の修験者達であろう。とすれば恐らく、旬の『小遣い稼ぎ』の雇い主達であるはずだ。しかし彼らは気まずそうな顔をして、遠巻きに旬を取り巻いている。

「その、……久しぶり、」

 苦笑混じりに言う旬も、彼らと目を合わせようとはしない。「別に、鬼を描きに来たわけじゃないよ」と話す声は、どこか言い訳じみている。

「客を案内してたんだ。ほら、そこの小さいおっさんさ。わざわざ中原から、鵺岩までこの窟を見に来たって言うもんだから、……」

 そう言って、旬が燕仙に視線を向ける。訝しんだ燕仙が、それでも彼に同意すれば、修験者達は幾らか警戒を解いた様子であった。

「そ、そろそろ十分だろ? 行こうぜ。もうじき陽も暮れるし、宿に案内するからさ」

 燕仙がそれに頷くと、旬はそそくさと窟を出る。

 そうして二人は町へ戻り、夕食をとって、燕仙のために用意された家屋の前で別れた。旬はどうやら、町外れの家に下宿をしているらしい。親はどうした、家族はいないのかと問いかけて、しかし燕仙は、そうすることをしなかった。その代わり、月夜の下で寝静まった町をそぞろ歩きし、もう一度、一人で夜半の鵺岩窟を訪れたのである。

「昼間はどうも」

 先程旬に案内された窟へ入れば、見た顔の修験者が一人、今まさにへ華を描いていた。壁面の端に描かれた、楽神亞空がくしんあくうの側に舞う、大輪の華々だ。躍動感あふれる足さばきで壁面を舞うこの楽神は手に琵琶びわを持ち、足元にはうごめく悪鬼を踏みつけている──。

「昼間の役人か? こんな時間に、一体何の用だ」

 筆を持つ手も止めないまま、修験者が低くそう問うた。邪魔をするなと言わんばかりの様子であるが、燕仙は意にも介さない。

「この町で餓鬼を世話役として雇ったんだが、あまり可愛げのないやつでね。以前はここで仕事をしていたと聞いたんで、その頃のことを、少し聞いておこうかと思ったのさ。あの子のこと、聞かせてくれないか?」

 燕仙がそう告げても、修験者はしばらく筆を止めようとしなかった。だが燕仙も、容易に退くつもりはない。修験者のすぐ隣に陣取り、持参した書物を読みながら、これ見よがしに乾かした果物を頬張り始めると、ちらりと視線が向くのを感じる。「食べるか?」と問うたが修験者はにこりともせず、「ついてこい」とそれだけ燕仙に言った。

「李旬は最近まで、この窟で悪鬼あっきの下絵を描いていた」

「ああ、本人からもそれは聞いている」

「では、奴に仕事を回さなくなった原因は?」

 問われて、燕仙は首を横に振る。旬が仕事を失った所以。燕仙はまさに、それを知るために一人で来たのだ。

 修験者の向かうまま、山場を進みまた別の窟へと入る。そうして暗闇の中に掲げられた火を追い、その岸壁に描かれた絵を見て、──

 燕仙は己の背筋に走った怖気に、小さく肩を震わせた。

──鵺岩窟には鬼が棲む。

 耳にしていたはずの言葉が、ようやく明確な実感を得た。

 

 火で照らし出してすら、闇に深く馴染む墨の黒。それが広い壁一面に、悪鬼の姿を描き出している。一人ひとり違う顔をした鬼達が、泣き、怒り、時には狂気に微笑みながら、この壁いっぱいに群がっているのである。

 下絵。下絵と旬は言った。芸術ごとに疎い燕仙に、絵画の作りはよくわからぬ。しかし大胆な筆使いで描かれたそれらの悪鬼達は、まるで今にも壁よりいでて声を上げそうな、そんな迫力に満ち満ちていたのである。

「李旬はもともと、ここより少し西にあった櫻嵐おうらんの出身だったんだ」

 櫻嵐。聞き覚えのある町の名に、燕仙は思わずはっとした。数年前、増税に反対した農民たちが一揆を起こしたことで、都にいてさえ耳にすることのあった町の名だ。当時は、どこか田舎で起こった、己に関わりのないこととして聞き流してしまっていたが、この周辺の話であったとは。

 そう、他人事だと思っていた。どこか田舎の身の程知らずが、無駄な血を流したものだと感じただけで、別段興味も湧きはしなかった。だが、その一揆の結末くらいは知っている。

「確か櫻嵐の人間は、……その殆どが、粛清されたのではなかったか」

 燕仙の問いに、修験者がひとつ頷く。「あの子はその生き残りだ」と答える言葉は、どこか突き放すようでもあった。

「李旬も、家族とともに死ぬはずだったのだ。だが通りかかった隊商に保護され、この町へとやってきた。それであの子は私達の書く絵を見て、悪鬼ならば、自分にも描けそうだと言ったんだ。描かせてみて驚いたよ。もともと絵の才能はあったのかもしれないが、しかしあの年の子供が想像だけで、これ程までに生々しい悪鬼を描けるとも思えない。……あの子はきっと己の故郷で、これだけの地獄を、実際に目にしたのだろう」

──世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?

 『年代記』の話をした際、旬は燕仙にそう尋ねた。彼はあの瞬間にも、己の故郷を想っていたのだろうか。

「あの子のかてになるならばと、しばらくはここで悪鬼の下絵を描かせていたんだ。だが最近、事情が変わってきた。あの子の生々しい悪鬼の姿を見ると、旅人たちが怯えるのだよ。気づいているかも知れないが、隊商が東翁砂路とうおうさろへ流れてしまっているせいで、鵺岩の町は徐々に不利な状況に向かってきているんだ。これ以上、李旬に鬼は描かせられない。それで、」

 「それで、旬をこの窟から追い出したのか」燕仙がそう問うても、修験者はすぐには答えなかった。しかし少しして、「そなた、本当は女人であろう」と唐突に、燕仙にそう問うてくる。

「何のために男のなりをしているのやら知らないが、もし李旬を気に入ったなら、連れて行ってはくれないか。あの子はまだ、母親代わりになる人間が必要な年頃だ」

「……、旬が邪魔だと」

「そうだ。鵺岩窟に、既にあの子の居場所はない」

 きっぱりとそう言い切った修験者の言葉に、しかし燕仙は、頷くことができないでいた。

 鵺岩窟にて鬼退治。こうして事情を知るまでは、そんな事を成せたのなら、面白かろうと思っていた。しかし。

(あの子もまた、居場所を持たぬ者なのか、──)

 身を寄せるべき故郷を失い、家族を失い、己の立ち位置を失って、……霞の内に今も生きる、悪鬼に心を苛まれる、──彼もそういう人間なのだろうか。

「旬。……私達は、少し似ているのかもしれないな」

 窟から帰る月夜の下、燕仙はひとり、呟いた。

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