鬼の棲まう窟の噺-3-

 「おっさん、大丈夫か」と可愛げもなくそう問う声に、思わずにやりとわらってしまう。旬だ。燕仙が笑んだのを見た彼は、いぶかしむように眉根に皺を寄せ、しかし問うことはせず手を延べる。燕仙も素直にその手を取り、立ち上がると、「お陰様で」とそう言った。

「驚きはしたが、怪我はない」

「そうか。ああ、そりゃ、結構だけど、……」

 訝しげな旬の言葉を遮るように、音を聞きつけて飛び出してきた男──この建物の家主であるらしい──が恐縮して、燕仙に何度も頭を下げた。先日の嵐で、屋根が傷んでいる自覚はあったのだが、と語るこの男はいかにも純朴で、謝罪には精一杯の誠意が込められている。

「良い、良い。私を含め、怪我人は一人も出なかった。そう気に病むな」

 苦笑しながらそう言って、しかしちらりと屋根を見上げる。瓦のずり落ちた箇所は確かに老朽化が進んでいるようで、周囲の瓦にもヒビが目立っている。

 瓦が落ちたのは、どうやら偶然であったのだろう。

(……、てっきり、の放った追手に見つかったのかと思ったが)

 家主がもう一度頭を垂れて、すごすごと家に帰ってゆく。その後ろ姿を見送りながら、旬が一言、「お優しいことで」とそう言った。

「私の運が悪かっただけだ。あの家主に罪はない」

鵺岩やがんへ来るなり、尻は墨だらけ、頭上からは瓦が降ってくるなんて、お前、よっぽど運が悪いんだな」

 言われて、「確かに」と燕仙も苦笑してしまった。しかしそうしてから、ふと、旬が燕仙の腕を取ったままでいることに気づき、眉間に皺を寄せる。

「おい、いつまで掴んでいるつもりだ」

「ん? ああ、……」

 煮え切らない口調で旬が言い、燕仙から手を放す。そうして彼は、──ふと小首を傾げると、「女みたいに細い腕だな」ときっぱり、そう言った。

「そういえばあんた、男にしては声も高いし、首も細いし、」

 吟味するように言う旬に、燕仙ははじめ、答えなかった。しかし、

「確か官吏がお前のこと、宦官かんがんだとかなんとか言ってたな。宦官ってあれだろ、その、男の、……アレをとると、人間、こんなに女みたいになるものなのか」

 真剣な表情でそう問うた、旬のその言葉を聞き、燕仙は思わず吹き出した。

「宦官を見るのは初めてか」

「そりゃ、こんな田舎じゃな。そもそもお前、中原ちゅうげんの人間なんだろう。豊かな中原から、なんだってわざわざ、鵺岩くんだりまできたんだ。商人ってわけでもなさそうだし、まさか物見遊山で、こんな辺鄙なところへ来ないだろ」

 再び町を歩きながら、何気ない口調で旬が問う。のことを思い返していた燕仙は、つい本当のことを口にしそうになり、──しかし笑顔を貼り付けて、「私に興味があるのか?」と冗談めかせてそう言った。

「そりゃまあ、わざわざ尻で墨を踏みにきた、変わり者のおっさんだからな。多少の興味は湧くっていうか」

 口を尖らせて言う旬に、燕仙はにやりと微笑んだ。それから耳打ちするように、微かな声でこう答える。

を探しに、ここへ来たのさ」

 「?」問い返した旬を見て、燕仙は大きく頷いた。

廖賀りょうがの皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍ひごの高僧が望んだ救世のすずとも肩を並べる代物だ」

 堂々と語った燕仙に、しかし旬の反応は薄い。「悪徳商法にはかからねえぞ、金がないからな」と語るその顔は、初めての話を耳にした、燕仙自身のそれとよく似ている。

──なあ、こんな話を知っているか? 中原を抜けた西域に、面白いものがあるらしいぞ。廖賀の皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍の高僧が望んだ救世の錫とも肩を並べる代物だ。どうだ、詳しいことを聞きたいだろう、気になるだろう。

──また、いつもの夢物語か? まったく、お前はそうやって、眉唾物の噺ばかりを並べたがる。

「お前に金がないことなんぞ十分承知さ。それで、聞きたいのか? 聞きたくないのか? どうなんだ」

「めんどくせえおっさんだな。はいはい、聞きたいですよ、聞きたいです」

 その言葉を耳にして、燕仙はにやりとした。そうしてまずは一言、「を探しているのさ」とそう告げる。

「年代記? 歴史書のことか?」

「まあ、それが一番近いだろうな。だがひとことで歴史書と言っても、この彩国の歴史を記した物じゃない」

「それじゃ、どこの歴史を書いてるのさ」

 その問いかけを待っていた。燕仙は得意げに腕を組むと、顎を上げて、「この世界のあまねすべてさ」とそう告げる。

「世界の、……すべて?」

 より一層訝しげになった旬の言葉に、燕仙はそれでも大きく頷いた。

「その存在を知る人間には、『阿国あこく年代記』と呼ばれているらしい。私の同僚はそれを、『宇宙の書』とも呼んでいたかな。その書物には遠い過去から未来まで、総ての事象が事細かに記されているんだ」

「うちゅうの書……?」

「そう。『宇』はこの世の限りを覆う大屋根を意味することから、天下総ての土地を指し、『宙』は中心にあって循環せる時の概念であることから、過去、現在、未来総ての時を指す。それで、世界の遍く総てってわけさ」

「けど、世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?」

「いいや、それに限らない。例えば今日、私とお前が出会ったことすら、んだよ」

 熱い口調で燕仙が語れど、旬は「ふうん」と流すだけで、食いついてはきやしない。ただ、「そりゃ、随分な厚みになるんだろうな」とだけ言ってから、ふと足を止め、燕仙の方を振り返る。

「そんなことより、着いたぜ。ここが鵺岩窟だ」

 話に夢中になっている内に、いつの間にやら目的地へと着いたらしい。幾らかの期待と共に視線を上げ、──燕仙は小さく息をついた。

 ここが鵺岩窟。切り立つ断崖に掘られた、千も二千もある石窟群。八百万やおよろずの神が祀られる、修験者達の修行の場──。そこはさぞかし神々しい、神聖な場であるのだろうと、燕仙はいつの間にやら、過度に期待をしすぎていたらしい。見ればそこには視界の端まで続く山肌があり、そのあちこちに、ぽかりと小さな穴が開いているのは見て取れる。

 しかし、それだけだ。

「これが、鵺岩窟か?」

 燕仙が問えば、旬は何でもない様子でひとつ頷き、「中へも入るだろ?」と近くの松明たいまつへ向かう。この真っ昼間から、何故松明など焚かれているのだろう。そう考えながら火を移した蝋燭ろうそくを手に提げ、旬の後へとついていく。そうして旬の選んだ石窟のひとつに入り込んだところで、火を必要とする意図が知れた。考えてみれば当然のことだが、窟の内部に陽は射さず、こうして蝋燭を持って入らなくては、視界はないに等しいのだ。

 そんなことを考えながら、それでも更に奥へと進んでいけば、ある塑像そぞうの裏側に、隠されたような入り口がある。誘われるままそちらへ進んでみて、──

「これが、鵺岩窟さ」

 得意げに言う旬の言葉に、燕仙は今度こそ、感嘆ゆえの溜息を吐いた。

 そこにひとつの、『宇宙』があった。

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