夕飯と勉強と、ある実験
緊張が解けて体が弛緩する。
「……もう6時過ぎだ」
俺の呟きに応じ、先生も壁掛け時計を見る。
「長々と喋ってしまったな」
「そこはお互いさまってことで」
「僕ばかりだったろうに」
この人はよく笑う。
目立った笑声こそ立てないが、笑顔に滲む様々な色味で感情を表す。
「……」
ふと、部屋の端に置かれた二つの紙袋に視線を向ける。
大きい方は補講をサボってしまった旨を聞くや否や、最高品質のコーヒー詰め合わせを『先生に渡してくれ』と押し付けてきたもの。小さめな方は『お詫びにもならないが、せめてもの謝罪として』と、俺に買ってくれたものである。
時間を金額には換算できない。しかし、あの額は俺の損失分をとっくに超えていると思う。
気付くのが遅くなったが、先生は先生なりに誠意を示していた。
「……。先生、夕飯どうする?」
お礼になるかはわからずとも、迷惑でないのならと提案する。
「お詫びに夕食作るのもやぶさかじゃないんだけど。ホテルで用意されてたり?」
「いや、朝食しかつけていなかった。ありがたい」
「簡単なものだけどね。親子丼って食べれる?」
「好物だ」
「良かった。んじゃ、ちょっと待ってて」
「よろしく頼む」
「大した味じゃないよ」
「ひとり暮らしで腕を磨いているのなら、きっと美味しいと思うぞ」
先生はひとり暮らしの食生活の適当ぶりを知らないらしい。
苦笑しつつ台所に移動し、冷蔵庫の中身を確認していく。
俺だけなら適当に食べるが、お客さんに食べさせるならそうもいかない。作り置きの出汁や材料を一揃えしたら、調理開始。
親子丼を製作している間、先生は台所まで来て調理手順を興味津々に見ていた。
出汁の匂いが漂う頃にはきゃあきゃあとはしゃいで、非常に可愛かった。
今もきらきらした目で俺を見ている。……この人、常識がないだけで無邪気なんだな。
「……はい、出来たよ」
どんぶりを食卓に置き、ふたを開ける。湯気の立つ鶏と卵、そして白飯。
家庭料理なりの出来ながらも不味くはないはずだ。
「! ……」
先生がほわぁと笑う。視界の暴力に等しい美しさを披露してくれた。
「では。いただきます」
「……召し上がれ」
手を合わせての作法は手慣れているとお見受けする。俺が想像するより彼女の日本暮らしは長いのかもしれない。
何度見ても、どこの国で生まれたのかさえ推測できない見た目をしているが。
「……ん。どうした、光太。箸が止まっている」
口にものを入れたまま喋ることもなく、飲みこんでから口を開いている。
足はきっちりと正座して礼儀正しい。
「……先生は東京に住んでるんだよね?」
「うむ」
「札幌にはやっぱ観光?」
「それもあるが、仕事だな」
「こんなとこで油売ってていいの?」
「観光の方が日数の比重は大きい。仕事はもう終わらせたから、あとは自由だよ」
「そっか」
親子丼を食べつつ、この可愛い人外さんの正体を考える。
(妖精とか?)
見た目と無邪気さからして近いところに思えるが、直接聞くのも躊躇われる。
あれこれ考えているうち、先生が俺に視線を返して問う。
「……もしや、体調が悪いのか?」
「えっ、あー……そういうわけでも」
「思えば、炎天下で逃げ回らせてしまったものな……熱中症になっていてもおかしくはない。それなのに夕食までつくってくれて。疲れているだろう」
「そんなことないって。元気だよ。凄く元気」
「熱中症は危険だ。頭痛やめまいを疲れのせいだと判断しかねないんだぞ」
「だから元気だって言ってんじゃんか」
足に疲れが溜まっているのを除けばこんなにも元気だ。
「……そうか? なら、いいんだが」
「そうだよ。むしろ、長袖パーカーでスラックス履いてる先生の方が心配だって」
指さして指摘してやると、たったいま気付いたかのように、先生が服装を見下ろす。
「北海道だって暑い時は暑いんだよー」
エアコンのついていない家の家主として、投げやりで呟く。
「確かに涼しくはないな」
「だろー? そっちこそ熱中症になるんじゃないの?」
「そこは大丈夫。……もうそろそろ、お暇させてもらおう」
ご馳走様をする先生に問いかける。
「勉強は?」
「本当に元気なんだな……」
信じられないものを見る目で見られた。追いかけまわした張本人のくせに凄いなこの人。
「そりゃまあ。陸上部だったんで」
「そういう問題だろうか」
先生はやがて苦笑し、ペンギンバッグからスマホを取り出す。
「アドレスを交換しておこう」
「おお。文明の利器持ってたんだ」
「僕を何だと思っているんだか」
神秘を連発していたから現代技術に頼らない人だと思っていた。
「接触式にしよう」
「あいさー」
スマホの背面同士をぶつけると、アドレスや電話番号が交信で伝わる。
こうして俺は、翰川緋叛なる謎の人物の連絡先を手に入れた。
早速とばかりに電話帳に登録していると、彼女は目を細めて静かに言った。
「……僕の正体は知らなくていいのか?」
「え?」
聞いてほしいのか? デリケートな問題に切り込む気はないのだが……
「いや、いいよ」
話したいのなら、もちろん聞くつもりはある。
しかし、彼女はそうではなさそうだ。
「先生はいい人っぽいから気にしない」
「…………。そうか」
先生がまた笑う。その笑みは今まで見せて来たものと質が違った気がしたものの、暖かみがあったからか気にはならなかった。
そんなことより、瞳にオレンジの火花が散ったことの方が気になる。
「では、光太。こんな人外を先生と呼んでくれるのなら、キミは僕の生徒だよ」
聞くタイミングを逃した。
「これから学問をキミに教えるとなれば、どうしても気になっていたことを解消したい」
「……俺が寝ちゃう以上になんかあるの?」
「ああ、あるとも」
俺は自分が眠ることよりさっきの不思議な現象について聞きたい。
「何を差し置いても確認しなくてはならないことだ」
「はあ……」
他人に詳細を伏せていた病状も容易く暴かれきったから、これ以上持病について質問されても俺が答えられない。
「頼む」
先生は真っ直ぐに人を見ている。
……そうか。この人はこういう人外なのか。
真っ直ぐ過ぎて、後ろめたいことのある俺のような奴が気後れする人外。
「わかった。わかりましたよ」
俺が折れるしかない。
「そんで? 質問は?」
「質問ではないから身構えなくていい。……実験をする。いいだろうか?」
「……ここまで来たら別にいいよ。何?」
彼女が何事かを呟く。
「■■■■■」
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