ニアミス

 いくつかの駅を通り過ぎて聞こえてきたのは、札幌駅到着を知らせるアナウンス。乗り降りの客は格段に増え、駅構内にもたくさんの人が行き交っている。

 電車が走った前後の清涼感を味わいながら、改札口へ。

 俺の目指す場所は書店の隣にリニューアルオープンしたという喫茶店だ。雑貨屋も兼ねており、そこに売られているクッキー詰め合わせが絶品だと聞いている。

 それを職員室に持っていって、無断欠席を謝罪しようと思ったのだ。

 ツッチー先生は『今日来るのはやめとけ明日来い。ほとぼり冷ました方がいい』と言っていたので、笹谷先生以外にもなんとか上手く伝えてくれているはずだ。

「……はー……」

 俺は気遣われている。俺が通りかかると談笑を止め、新たな話題を探し出すクラスメートを見ればわかる。解説文を見るだけで眠ってしまう俺に『お前のおかげでテスト作るのも大変なんだから次は頑張れよ』と笑って背中を叩いてくれる教師もいて。

 キツい。精神的にキツい。

 外――しかも雪降る道端で、いつの間にか眠っていたことさえあったのだ。外で倒れたのはその一度きりだが、しばらくは外を歩くのも怖かった。

 生活するだけで多大な迷惑をかけている。こんな体質で無事に生き続けたのは奇跡だ。

 ……高校を卒業したら、俺はどこに行けばいいのだろう。神秘に満ち満ちたこの世界でどう生きればいいものか。

 現実逃避をしながら地下空間を歩き、ぼうっとしながらエスカレータに乗る。

 喫茶店の目印のネコ型看板を目指して歩き出す。

 ――看板の下で、青い髪の美人がコーヒーを飲んでいた。

「⁉」

 見れば忘れ得ぬその美貌。どこからどう見てもアイスのお姉さんだ。

 彼女は俺に気づき、カップを店員に渡してから歩み寄ってくる。別れた時点では見なかったペンギンの手提げのバッグに、アイスが入る厚みはない。

「こんにちは」

 どうしてこんなに平然と挨拶が出来るのだろう。

 もう用などないはずだ。

「アイス、もうないよ。まだ何かあんの?」

「……やはりそういう勘違いか……」

 お姉さんはがっくりと肩を落とすと、しかし、姿勢を正して告げる。

「アイスは食べていないよ」

「え」

「早い者勝ちだと言われた時点で、中央区に宿泊中の僕ではご近所なキミに勝てないとわかっていたからな。あれはキミのもの。保管しているから返すよ」

 想像上のお姉さんより遥かに大人な言葉が聞こえ、思わずお姉さんの顔をまじまじと見る。

「……キミの想像内で僕がどれだけアイスに執着していたのかが気になってくるな」

「嘘ついてまで奪い取ろうとするなんて、酷い大人もいたもんだなって……」

「嘘などついていない。……最初に奪い取ったことは本当に申し訳ないです……」

 後ろめたくなるなら最初からやるなよ……

「俺、炎天下で走り続けたけどそのまま溶けなかったよ」

 自分がどんな顔をしているのか自信がない。割と久しぶりに本気で神秘へのコンプレックスを直視したので、精神的ダメージは非常に大きい。

「…………。うん。そうだな。ここで言うよりも、先に用事を済ませてしまおうかな」

 お姉さんはペンギンバッグを開け、何やら薄っぺらい物体を引っ張り出した。

「……あ」

 それは一枚のパスケース。

 ビニールは端で破れかけており、角も擦れて色褪せている。この年季の入り具合は、間違いなく俺のものだ。

 ぽかんとしたままの俺の手にパスケースを握らせて、お姉さんが苦笑した。

「勘違いさせたようで済まなかった」

 家の前で待ち構えていたお姉さんに怯え、用事も聞かずに逃げた後、ヤケクソと決めつけでアイスを渡した。

 そこで終わったと思ったら、今ここでお姉さんに謝罪されたのだ。

 俺が盛大な勘違いをしたのは間違いない。

「……申し訳、ないです」

 追いかけっこの最中でなくスーパーの周りで拾ってくれたのだろう。

 つまり、自宅前で待っていたときに言っていた《用件》もこれだった。

「僕の方こそ、追うのが楽しくてテンションがあがってしまって。申し訳ない」

「歪んでんな……」

 ぽつりと呟くとお姉さんが落ち込む。

「や、じゃなくて。最初から、そう言ってくれたら……俺だって……」

 俺だって勘違いしなかったのに。俺だって補講をサボらずに済んだのに。

 やつあたり気味な思考をぶつけてしまいそうになり、唇を噛む。

 落ち込んでいたお姉さんは、俺の様子を見て悩むように眉間にしわを寄せた。

「……本当に申し訳なかった。勝手に住所まで突き止めて……」

 許可があったら突き止めていいとは思わないが、反省しているようだ。

「…………。届けてくれて、ありがとうございました」

「どういたしまして。怖がらせて済まない」

「最初に何の用事か訊かなかった俺も悪いから、いいっす」

 決めつけで見ないで素直に質問すればよかったのだ。

 人外である異種族は、人並みの社会常識を得るのも苦労すると聞く。

「アイス、もういいです。お詫びとお礼として差し上げますんで」

「! え、あれは、キミが……」

「こっち地元民ですから、また食べられますよ」

 まだ頷かないお姉さんに、きっちりと頭を下げて伝える。

 どうせお姉さんのおかげで目立っている。ざわつく衆目など今更だ。

「わざわざ届けてくれて助かりました。ありがとう、お姉さん」

 彼女はどこかぎこちなく指を動かしていたものの、ゆっくりと礼を返してきた。

「どういたしまして」

「はい。じゃあ、これで」

 それきりにして、俺はお菓子コーナーへと歩き出す。

 だが、お姉さんは俺の肩を叩いて振り向かせた。

「……何ですかね?」

「訊きたいことがいくつかある」

「…………。そういえば俺もあるよ。俺ん家の住所は消しといてください」

 どう調べたのか知らないがデータとして残しておいてほしくない。

「それはできない」

 お姉さんが、迷いない即答と真剣そのものの顔をした。

「僕は忘れることができないんだ」

「どゆこと?」

「超記憶。……完全記憶か瞬間記憶と言った方が通りがいいかな。見聞きしたものや感情までも、何も薄れず忘れない記憶力を指す。僕の性能の一つだ」

 いきなり不思議なことを告白されてしまい、困惑する。

 訝しそうにする俺にお姉さんは淡々と言う。

「……信じてもらうには本の暗唱くらいしかないから、別にいい。キミの個人情報に関しては決して悪用しないことを約束するよ」

 お姉さんは再びバッグの中を漁り、革細工の箱のようなものを手に取る。

 かぱりと開けて名刺を取り出し、そのまま裏に何やら書き付けて俺に握らせる。

「何の足しにもならないが僕の住所だ」

 手書きなのに印刷物のような字で『東京都××区』から始まる住所が書き出されている。

 ……本当に足しにならないのだが、どうしろというんだろう?

「渡されましても……?」

「悪用していいよ」

「しません‼」

 思わず声を荒げるとお姉さんが目を丸くしていた。

 この人、本当に大丈夫なんだろうか。この社会に馴染めているのか?

「出前を頼むいたずらくらいなら許そうかと思ったんだが……」

「しません。そんなこと、絶っっ対にしません!」

 店にもお姉さんにも迷惑をかける真似などしてたまるものか。

 必死で断っていると、お姉さんが困惑する。

「僕の友人なら嬉々としてピザを頼むぞ?」

「そんな友達、縁切れよ……」

「むう……」

 いら立ちと罪悪感と呆れと驚きが混ざるところへ毒気を抜かれ、このもやもやした気持ちをどうしたものかと悩む。

 いちいち文句を言っていては尽きない気がする。

 この人と会話をするには、前提となるお互いの常識が違い過ぎるのだ。

「……いろいろと、ごめんなさい……」

「…………うん。もうちょっと、警戒心を持った方がいいと思う」

「友人からも言われている」

「言われているうちが花だと思うよ。改善できたらしたらいいんだし」

 自分を棚に上げて言う。

 ……現状を何も改善できない自分を思うと、また空しくなった。

「はあー……」

 お姉さんは黄色の瞳でじいっと俺を見ている。

「? ……なんですか」

「キミは、神秘の仕組みを記憶できないんだな?」

「――――」

 彼女は何の前触れもなく、俺という存在の核心を言い当てた。



  ――*――

「……お」

「っわ。……いきなり立ち止まらないでください、先生」

 追突された先生は微動だにせず、ぶつかった私が軽く弾かれる。

 体幹の違いを思い知らされていると、嬉しそうな先生がガラスの壁の向こうを指さす。

「お前に言ってた俺の友達がいるぞ」

 ガラス越しかつ遠距離では私には視認できない。ガラスのない位置から、その人と向かい合っている自分と同学年くらいの男子が見えるくらいだ。

 『どこかで見覚えがあるようなないような』と思っているうちに、先生がくるりとその場でターンし、エスカレータへ向かう。

「ああ、見えないか。見えなくていいや」

 くつくつと笑う。いたずら好きの子どもみたいな笑顔だ。

「帰るぞ。どうせ会えるんだから、また今度だ」

「え、ちょ……ま、待ってください!」

 私は慌てて夕焼け色を追いかけた。

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