その目線は外側から
社会科準備室を出た俺に、先輩にあたる数学教師が声をかけて来た。
「ツッチー、遅かったな」
「……ツッチーはやめてくださいって。先生のそれが生徒にうつってるんすよ?」
この先輩は俺の大学時代の先輩であり、俺が教師をするとなってはありとあらゆる助言をくれた大恩人でもあり、要は全く頭の上がらない人だ。
名を笹谷という先輩は、頷いてから親指を立てた。
「ん。そか。やめておこう」
「ありがとうございます。んで、何かありました?」
「今日、ツッチーは森山と話してたな」
「舌の根も乾かぬ…………はい、そうすね。話しました」
睨まれたため、後輩として従順に受け答えする。呼び名の訂正は険しい道となりそうだ。
ともかく。森山光太の担任とはほかならぬこの人だ。
入れていた用事を潰され愚痴ってはいても、家庭の事情と大きなハンデを抱えた一人暮らしの生徒のことは心配して目をかけている。
進路希望も本来は笹谷先生に提出すべきだったが、親がどちらも道外の森山には措置が取られ、俺に提出することになっていた。内容があまりにあまりだったので、急遽呼び出して再提出を要求したのだが……あいつは補講が終わるまでにきちんと書けるんだろうか。
「どうだった?」
「どうもなにも……あいつらしく、好き勝手にいつも通りでしたよ」
ふざけて慇懃無礼で、いつも通り過ぎるくらいだった。
「なんなんだかな。悩んでる様子もないんすよ」
森山光太は、教師から見たらお世辞にも評価がいいとは言えない生徒だ。
思ったことは口に出す。いらんことをぶっちゃける。要は人をイラつかせる性格をしているわけだが、悪い奴じゃない。相手が教師でさえなければな。
遅刻が多かったのは『一切問題なし』とも言えないながら、極端に受験に差し障るくらいでもない。就職の推薦はさせてやれないくらいの回数だってこと。
森山には建前として厳しく言ったものの、他の問題児を抱えた俺たちにはめくじら立てる要素にもならないといったところだ。前に話に出たカンニング野郎の方が重度だしな。
ならば、なぜ森山は問題児なのか。
それは背負ったハンディキャップのせいに他ならない。
――森山光太は神秘を記憶できない。
小4の秋、学校内で倒れて病院に搬送された森山に明確な病名が付けられることはなかった。理由が解明されることもなかった。
病状はいたってシンプル。神秘の関わる授業が始まると瞬く間に眠ってしまう。
その上、半日は目覚めず眠り続けて――目覚めたときには、それまで見て聞いた神秘の情報をすべて失くしてしまう。
現在は体を揺すれば短時間で覚醒させられるようになったそうだが、改善されたところでデメリットは大きいままだ。何より、座っていようと立っていようと一瞬で眠る。ほとんど気絶に近い昏睡。受け身も取れないから命の危険さえある。
理数が壊滅的にわからないのもこの病気のせいだ。理数の大部分には神秘の初歩的な法則や計算問題が含まれる。教師は説明のために神秘を織り交ぜざるを得ず、生徒はそれで学ばざるを得ない。そんな授業を森山が受けたらどうなるか?
まず眠る。起きてもまた寝る。
我々教師としても焼き直しをしていられないので、俺と先輩とで『耳栓するか別室で特別授業か選べ』と迫ると観念して出てきた。
授業を抜け出すしかない状況で一人浮くようなこともなかったのは、あいつの人柄と努力の賜物だと思う。日常会話でさえ、神秘に触れた内容ならば眠ってしまうというのに。
「……あいつ、よくやってますよ」
あいつと同じ立場でない俺たちには、森山の恐怖と苛立ちを理解してやれない。
「外ではけっこう平気らしいんすけど」
外で倒れたら大変ではと質問してみたところ『道端でぶっ倒れたら、俺死んでますって』と苦笑された。その笑みは痛々しいことこの上なく、聞いた俺の心も傷んだ。
普段はふざけているくせに時折痛切な感情を覗かせるから、あいつは教師の間でも格別に心配されている。同時に、同情したら慇懃無礼になるのでちょっと苛立たれている。
……まあ、いろんな意味でいい性格してるってタイプだな。
「そんだったら、家か図書館で勉強すりゃあ……あー。出来るんなら、やっとるな」
「え、先輩聞いてなかったんすか?」
「……教師で会話が成立してんのはツッチーしか居ないんだ」
「…………。そうですか」
俺に話してくれたのは、俺もあいつに自分をさらけ出しているからだと思う。
たまにぶん殴りたいほどいらつくけど、一応は信頼してくれてるらしい。
森山は笹谷先生に冗談が通じないとわかっているのかいないのか、説教を受けながらもいい関係を築いている。
「……どっか飲み行くか。付き合え」
「えっ。今日、俺……ちょいと用事が――」
「あん?」
「お供します」
世渡りは大事。
財布の中身を確認しつつ、ふと夜空に浮かぶ月を眺める。
幸いにも、雨が降り出す気配はなかった。
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