第二章 少年少女と人外
ネジが飛んでいる
目が覚めると、朝日をバックにリーネア先生がボウルを持ってたたずんでいた。
「…………。何してるんですか?」
「パン焼こうと思ったらレンジ壊れてるの忘れてた。心落ち着けてる」
「どう考えても自業自得ですよね?」
電子レンジは直せなかったようだ。
「そんなことより。聞け。弟子」
「さらっと流すのやめてください……で、何かあったの?」
彼は『うん』と頷き、ボウルを私の勉強机の上に置いた。
「冷蔵庫のゴムがカビてたから、新しい家電を買いに行こう。臭いと汚れも気になるし」
「はい? カビ?」
起き上がりつつ、先生に応対する。
「うん。カビだ。上のとこと野菜室」
彼はスマホに証拠写真を表示し、私に突きつける。
薄灰色だったゴムパッキンが錆のような赤茶色に染まっていた。
「目立たない内側だけど、これは衛生的にまずいし、冷蔵庫自体調子も悪い」
「……先生、変なもの入れた?」
「爆薬くらいしか」
「入れないで」
家の冷蔵庫が爆弾倉庫と化している。
もちろん、先生が言うことを聞いてくれることはなく、彼はラフなジャケットを羽織った格好で宣言する。
「今日は電子レンジと冷蔵庫を買う。金は俺が出すから気にするな」
「レンジだけで大丈夫ですよ?」
電子レンジは先生の自己責任だとしても、冷蔵庫は共有して使っている。カビに気付かなかったのは私も同じだ。
「冷蔵庫なら、生活費の通帳からその分出せるから」
「じゃあ冷蔵庫は割り勘だな。……や、ちょっと待て」
先生は全く悪びれずに胸を張る。
「そういや冷凍室の壁溶かしてた。3:1(サンイチ)でどうだ?」
「そんなことをあっさりと言わないでください!」
「わざとじゃない。友達からもらったもの入れたら溶けただけ」
「やっぱり変なもの入れてるじゃないか!」
「ちゃんと掃除して部品取り換えたから大丈夫だよ」
「プラスチックを溶かすようなもの入れてた冷蔵庫を使わされてたのかって話です‼」
「そんなに怒るなよ。やっぱり全額俺が出すからさ……」
「そういう問題じゃ……うう……」
口を開くたび泥沼に沈む先生が落ち込んでいるのを見て、言い過ぎだったと判断する。
「……ごめんなさい、こんな朝から怒鳴って」
「いい。謝るのは俺だ。ごめんなさい」
「はい、先生」
先生は頷き、ボウルを持ち上げる。発酵途中の生地は白くてとても柔らかそうだ。
「生地どうするんですか?」
「あとでフライパンででも焼くよ。時間止めとく」
「わかりました。帰ったら手伝いますね」
『用意はのんびりでいい』と言い残して、先生はリビングに戻っていった。
うちのリビングには入れた物体の時間を止める装置が鎮座している。正月に作った大福が夏になっても美味しく安全に食べられると言えば、その凄まじさは伝わるだろうか。
上昇の激しい夏の気温では発酵具合が不安なパン生地も、時間を止めてから必要な時に取り出せばよい。
「……元気だなあ、先生」
暑い中パンを作るバイタリティはどうにかならないものか。そうは思っても、季節関係なく火薬で遊んでいるからには無理なことだった。
朝食と歯磨き顔洗いを済ませ、着替えてバッグと財布の中身を点検する。
準備を終えるタイミングを見計らったように、先生が声をかけた。
「ケイ、準備できたか?」
「あ、はい」
「ん。じゃ、行くか」
玄関を出て階段を降り、エントランスを過ぎて少し歩くと駐車場が見えてくる。
先生の愛車は白のワンボックス。
検査に受かった私に神秘を教える教導役に決定した先生は、ご自身の職業がネット環境さえあればいい在宅仕事ということもあって『どうせならしばらく札幌に住むか』とマンションの賃貸契約と車を購入したらしい。
そこへ、先生によって母親から助け出された私が転がり込んだ。
この車のおかげで、高校の友達と大人数で海に行ってみたり、ちょっとした旅行をしてみたりと出来たので、偶然ながら大型の車を買ってくれていた先生には感謝している。
先生は周囲を確認。車体の下まで覗き込んでから、ロック解除と同時に運転席に滑り込む。
この動作は彼が車を運転する際には必ずなされるのだが、あまりに素早く無駄のない動きであるため運転席に吸い込まれているようにも見える不思議な光景だ。
なんとなく興味をかられて、私も車の下を覗き込んだ。
だが、妙なものが見えたのですぐにやめた。
「…………………………」
普通に後部座席に乗り込んでシートベルトを装着する。
「じゃ、出る」
アクセルを踏むとワンボックスが動き出す。
スピードを出して無理に飛ばすことはせず、滑らかな加速と緩やかな減速を繰り返して札幌の碁盤の目の道を走っていく。運転が上手いとはこういう人のことを言うのだろう。
「♪……」
「……先生」
上機嫌な鼻歌を遮るのは申し訳ないが、先ほど見たものを思い出すと我慢できなかった。
「何だ?」
「この車って何円でした?」
「何だ、車買うのか? 無免許は引っかかった時面倒くさいぞ」
「免許取ってから買います!」
法で決められたことを“面倒”と評するのはどうかと思う。
「わかってるよ。確か……20万くらいだったかな」
「この型の車にしては激安ですよね」
「おう。事故車だったからな」
さて、何の事故だったのか。
――先ほど、車の底に逆さに張り付く半透明の男性と目が合ってしまったのだが、夏の幻で片付かないものだろうか。
「……先生。車の下、さっき見えてました?」
「お前に見えるもんが俺に見えねえわけねえだろ。テレビつけられるようになったくらいで思い上がるな弟子」
「……だよね……」
「『未練を残して死にきれない』とか言うから、『知るか死ね』って顔蹴ったら泣いた」
人は鼻に衝撃を受けると涙が出やすいが、先生の言い分からして生理反応ではなく感情が原因だ。死んでまで『死ね』と追い打ちされれば泣きたくもなるだろう。
先生は『これ以上死なないから殴っても死なない』という理論のみで全力で殴れる人だ。
「ねえ、まさか、買ったときからずっとあのまま?」
「そうだけど?」
「私の友達乗っけて海行ったときも?」
「うん」
「私たちの下にあのおじさん居た?」
「居た」
「…………」
口が裂けても友達に言えない。
「……なんとかしようって思わないんですか?」
「いっつも思うけど、タメ口か敬語か統一しろよな。っつーか、いままで何にもなってねえだろ。3年間気付かなかったくせに」
「そういう問題じゃないんだよ先生……」
「ボンネットに出てきたときは邪魔だったから殴って引きずり下ろしたけど。他はない。それ1回きりだ。あんまりいじめたら可哀そうだしな」
「生粋のいじめっ子が何言ってるんですか」
私が覗き込んだ時、おじさんははっきりと怯えたのち安堵の息を吐いていた。先生がまた覗き込んできたと思ったのだろう。
神秘を自覚してすぐ見えてはいけないものが見え始めていたかつての私に、先生は『腹殴ればどんな生き物も黙る』と素敵な理論を披露してくれた。
私には半透明の人体に触れる度胸がないので、その理論は役立てられそうにない。
「弱い奴に喧嘩売ってもつまんねえよ」
「どこの格闘漫画ですか」
ちょうど信号が青に変わり、先生は再びアクセルを踏む。
「……っていうか、純粋に可哀想です」
「なにが?」
「この状況が」
「ふうん」
「この3年間……あちこち連れてってもらえて楽しかったですけど」
「じゃあよかったじゃん」
「もうちょっとおじさんのこと考えてあげてください。あのおじさん、車に引きずり回されてるじゃないですか。体勢的に」
「『事故を起こして以来誰も運転してくれなかったから、運転してくれて嬉しい』って言ってたぞ。決めつけんな」
「あんなスリリングな状態で⁉」
他の神秘持ちに見られていたら、幽霊を車底にくくりつけて引きずり回す鬼畜扱いだ。
私の疑問を察したのか、先生は言う。
「車の底に居たら、走行中は誰にも……俺らみたいな神秘持ちでさえ見えなくなるんだとよ」
「だからって……」
「車が動かなきゃ景色が変わらねえもんだから、海にまで走ったときは感動したらしい。砂が背中すれすれでスリリングだったってよ」
「……そういう刑罰あったよね」
「文句が多いな。……俺も一応、おっさん自体に運転していいかは聞いたぞ。本人が楽しんで納得してたからそれでいい」
「あれって楽しんでるの……?」
「俺もいいことした。乱暴に扱ったことは謝ろうと思ってるけど」
「先生も反省することあるんですね」
「あるよ。あのとき地雷埋めときゃこの苦労はなかったんだなとか、無理してでもマガジンかっさらってくるんだったとか。何度もな」
頭が痛くなりそうだ。
「この車、可哀想なんだぞ? 事故車だってだけでたらいまわしにされてたんだ」
「本物の幽霊がくっついてますよ……」
「何しろ、買って運転するやつみんな事故るんだからな」
私の想像以上に事故車。
「不幸な偶然が重なって、札幌の中古店に回ってきたんだ。顔蹴ったあとのおっさん、泣き止んだらなんか語りだしてさ」
「偶然?」
「? 偶然だろ。それか整備不良。……あとは運転手の腕が悪いとか?」
「その事故って、何回あったんですか?」
「んー。2年で15、6回? 店員はそういってた」
「偶然……かなあ……?」
「俺も初運転でタイヤが変な方に行ったけど、ハンドルひねったら直った」
「……そのあとおじさんと何か話しました?」
「手の皮がずりむけて痛いって泣いた。顔蹴ったのはその時だ」
「…………」
「ん? どした?」
絶句から一拍おいて、私は絶叫する。
「怨霊じゃないか――――――‼」
神秘が公になったことと前後して、幽霊の存在と、神秘持ちが彼らを認識できるという事実も公になった。
幽霊という存在は体という枷がないためか、人体としてはありえない怪力を発揮することもできる。霊体の維持に余裕があって、余った力で外界に影響を及ぼせる幽霊もまれにいる。
それが可能な幽霊は往々にして怨霊ばかり。
私は先生にもう一度告げた。大事なことだからもう一度だ。
「あのおじさん、絶対怨霊です‼ 手の皮ずりむけたって、先生が無理やりハンドルひねったからでしょう⁉ タイヤの軸掴んで変な方向に曲げてたんですよ!」
私たちの神秘:パターンは素手以外に道具によっても幽霊に影響を及ぼせる。
車も道具とみなされるので、乗って走れば自走する凶器だ。運転手が無理やり進行方向を曲げれば、タイヤ軸を握る幽霊の手は無事では済まないだろう。
「誰もが事故るとか聞いたら誰だって乗ってみたくなるだろ?」
「危険な好奇心……! 戦場でジンクスとか気にしないんですか?」
運転するたび事故を起こす車ほど不吉極まりないものもない。
「ジンクスで勝てたら世界中みんな占い至上主義だよ。おみくじで生死が決まるとかたまったもんじゃねえ」
兵隊さんが朝の占いコーナーを見ているのを想像したら非常にシュールだった。
「道具は使えるなら使う。贅沢言うな」
「気分とかあるでしょう!」
「…………」
「っはあ…………先生?」
息切れをする私をふと振り向く。
「……さっきから思ってたけど」
不思議そうに首を傾げて。
「元気だな、ケイ。そんなに街中楽しみか?」
「危機感が共有できないっ……‼」
車内に先生と私を。車外に幽霊を搭載したワンボックスは、街中へと進んでいく。
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