全力鬼ごっこ

 俺こと森山光太は、逃げていた。

 これまでの俺の人生には存在しなかった恐ろしい追跡者から、死に物狂いで逃げていた。

 ハンドルのミラーを時折覗き込むも、背後に追手は見えない。

 それでも尚、俺は逃げていた。

 無意識のうちに目指し、そして辿り着いた地下鉄駅入り口を見やる。俺の家からそこそこの距離にある地下鉄駅。あちこち曲がりながら来たから、相当な距離を走ったのだとわかった。

 自転車から降りる。

 折り畳み自転車はスイッチ一つで展開と縮小ができる。

 ……未来感とロマンに溢れた一品の仕組みを知ることができないのが、非常に心惜しい。

「もう、駅入った方が早いよな」

 ICカードの残高が気になった時、高く澄んだ女性の声が真後ろで響く。

「僕もそう思うぞ」

 ぎこちなく首を回すと、追手は俺の背後に佇んでいた。

「ようやく話ができるな!」

 いるだけで視線を集めるくらいに異質な美貌が、恐ろしく綺麗な笑顔を花開かせている。

 深い海から抜き出した青の髪とレモン色の瞳はくっきりと目立つ。肌は、雪みたいとか人形みたいとかの言葉では例えたくなくなるほどに白く透明だ。

 顔はこれ以上なく美しい。あまりに完成されすぎていて鳥肌が立つ。

 かつて出会った中でこれほど美しい人は見たことがない。

 服装は夏向きではない長袖パーカー。これまた夏にそぐわない厚手のスラックス。年頃は20代前半くらい……全体的に、こんなところにいることに違和感さえある女性だった。

 ……いや、それはいい。

 目下最大の問題は、反則行為――神秘を使って俺を執拗に追いかけてくることである。

 彼女との出会いは昨夜9時過ぎのスーパーまでさかのぼる。


      *


 クリーニングに汚れたシャツを出してから到着したスーパーは、地域密着のチェーン店。オリジナルのアイスパフェを作ることで地元民に有名だ。

 店内を巡ってカゴに品物を投入していくうちに、アイスコーナーを通りかかった。

 するとそこにはまさしく、件のアイスパフェが鎮座していたのだ。

「おお、残ってた……!」

 個数限定商品が生き残っているとは思わなかった。ぽつんと取り残された容器は、哀愁がありながらも神々しく見える。

 両開きの戸を引こうとしたところで、全く同じタイミングで取っ手に白い手がかかった。

「「え」」

 声が揃う。

 思わず隣を見ると、隣もこちらを見返していた。

「……あの」

「ひとまずだが」

 どう呼び掛けるべきか躊躇う俺に、恐ろしく綺麗なその人はケースを指さす。

「……開けているとアイスが融けるんじゃないかな?」

「あ、そ、そっすね」

 俺が引き戸から手を離せば、からからと右側の戸が閉じていく。

 お姉さんが手を離す。左側も閉じていく。

「ありがとう」

 閉まる寸前でお姉さんが中からアイスを抜き取る。踵を返して歩き出した。

 あまりに鮮やかな手管に3秒は魅入っていたと思う。

「ちょおおい⁉」

「わっ」

 我に返り、怒りを込めてお姉さんを引っ張り戻した。

 お姉さんより少し早く眺めていただけで、俺が先に手に取ったわけでもない。厚かましいかもしれない。

 それでも、話し合いもなしでこれはないだろう!

「何だろうか?」

「何だろうも何も、それ! パフェ!」

「うん。パフェだな」

「じゃなくてね! 俺もそれ欲しかったんだ!」

「そうか。僕も欲しかった!」

「見りゃわかるわ‼」

 僕っ娘にびっくりだが、驚きを怒りが上回った。

 お姉さんは、アイス以外には雑誌とリンゴジュースしか入っていないカゴを提げている。雑誌もジュースも、ここでなくたってコンビニで売っているものである。

 つまりお目当てはアイスのみ。

 また、ここらの地域は駅に近いとは言えず、観光客が宿泊できるような施設も少ない。

 この人は、街中の宿泊先から遠征してまで買いに来た可能性が高い。

「このパフェって道外……海外でも有名だったり?」

「海外とまでは。精々がガイドマップのオススメスイーツに掲載されるくらいだ」

 ここまでの彼女の日本語に淀みは欠片もない。声だけ聴けば日本人が喋っていると勘違いしてしまうだろう。

「……じゃあ、あんたはそれを見てここに?」

「札幌在住の友人から勧められた。楽しみにしていたから、キミに譲る気はない」

「俺が先に見てたんだけど?」

「ほう。見ただけで所有権を主張するのか? 戸を引いたのは同時だったというのに」

 時代がかったような格式ばった堅い話し方をする。声がものすごい可愛いせいで背伸びした幼い女の子のように感じてしまう。

 見た目と季節を間違えた服装のお陰で、みるみるうちに現実味が失せてくる光景だった。

 めげずに訴える。

「手をかけたときから所有権が発生するんなら、俺とあんたはぴったりおんなじだったよね? なのに話し合いもせず持っていこうだなんて、どうかと思う」

「先に手を離しただろう」

「融けるって言わなきゃ離さなかったよ」

 レモンの瞳が細められると怪物と対峙する気分になってきたが、恐れはしない。

 いわばこれは、たった一つのアイスを手に入れられるかどうか……その戦いなのだ。

「……そのアイス、明日も売ってるよ」

「この味は今日で最後だと聞いた。季節限定であることはもちろん知っているぞ」

 『えっへん』と言わないのが不思議なくらい、動作と口調が甘ったるい。

「そんなに売れ残りが食べたいんだ?」

「僕とキミが買おうとしているんだ。それに、売り場からカゴに入れられた商品は売れ残りではあるまい? 店にも商品にも失礼だぞ」

 どうやら屁理屈でごまかせる相手ではないようだ。

 お姉さんのカゴの中のアイスを見やる。パフェの名がつけられるだけあって見た目も容器もそれに近い。一回り大きな縦長のドームで覆うことで、形が崩れることを防いでいる。

 リンゴの果肉とレモンソース、ビターなチョコケーキ。積み重なった具材の隙間を埋める、甘さ控えめバニラアイス。それらが調和した味の頂点に座するソフトクリームは、乳製品大国:北海道を象徴するかのように絶品だ。

 困ったことに、お金を出し合って分けようにも、味と量を平等に半分にするのが難しい品なのである。形状もそうだし、具材の比率や配置も同じく。

 まさか、見ず知らずのお姉さんと一緒にアイスをつつくわけにもいかないし……

「……はあ……」

 しばしの睨み合いののち、ため息をついたお姉さんがアイスをケースに戻す。

 融けると注意した以上、自分が違えるつもりはないのだろう。

 一度出したものを戻すなと店員に怒られるところだが、もう閉店間際。掃除の準備をする大学生くらいの女性店員は『さっさとどっちか買えよ』という目でこちらを見ている。

 冷静になると申し訳なくなってきた。

 腹を括り、審判を天に預けることにする。

「……ここはじゃんけんで」

「嫌だ」

 まさかの即答。

「負けるからやだっ‼」

「だだっこかよ」

 じゃんけんの勝ち負け相子は3分の1だ。勝敗を決めるだけなら2分の1。この単純な確率にすら賭けたくないとは、どれだけアイスを譲りたくないのだろうか。

 ふざけた言い分に文句を言い返してやろうと顔をあげる。

「はい、そこまでー! 閉店時間でっす‼」

 その寸前で、女性店員が割り込んだ。

「「え」」

 再度、俺たちの声が揃う。気づけば蛍の光が聞こえていた。

 お姉さんがおろおろして、自分のカゴとケースの中を見比べている。

 俺はと言えば、呆然と立ち尽くしている。

 額に青筋立てそうな店員さんは俺たちからカゴを奪い、レジへ持っていく。

「会計しますんで。レジまでついてきてくださいねー!」

 時刻は9:55――閉店5分前だ。戦いを続行してはさらなる迷惑がかかる。

 しかし諦めきれない俺は、こっそりと店員さんに話しかける。

「あの、アイス……」

「小一時間言い争って決着つかないのに、まだやる?」

「……すんません」

 店員さんの後ろをとぼとぼとついていく。

 お姉さんものろのろと後をついてくる。

「……あぅ……ご迷惑をおかけして……」

「あんたもさ。そんだけウチの店のアイス楽しみにしてくれたのはありがたいけど……もうちょっとさ、妥協したっていいんじゃない? 大人なんだし」

「仰る通りです……」

 人外の彼女にも自らの行いを恥じ入る機能があるらしい。涙目で何度も頷いている。

 カゴがどさどさとレジカウンターに置かれた。

「ほら、会計するよ」

「「はい……」」

 意気消沈する俺たち二人。

 お姉さんの分の会計を通しながら、店員さんが呆れたように言う。

「アイスは明日まで裏で残しとく」

「「!」」

「ずっと管理してられる訳じゃないから早い者勝ちね。他の店員にも伝えとくから」

「……わかった」

「了解した」

 店員さんにもう一度謝罪と感謝を伝えてから、俺とお姉さんは適当なあいさつでそのまま別れ、それぞれの帰路についた。



 朝早くに目覚めた俺は、自転車を走らせて開店直後に店に滑り込んだ。

 顔見知りの店員が居たので声をかけて事情を伝える。

「青い髪で黄色の目のお姉さんって来てました?」

 この問には首を横に振られた。

 少し申し訳なく思いつつも、一方で勝者として遠慮なくアイスを受け取り、唐揚げ弁当とかぼちゃサラダを買って帰った。

 午後からの補講の準備でもしようかと思いつつ、アパートの階段を上っていく。

 ここまでは実に平穏だった――自宅前に青髪の美人が見えるまでは。

 唖然とする俺に、日付が変わっても季節感のないお姉さんが笑いかけてくる。

 シャツに長袖パーカー。かっちりとしたスラックス。だというのに、彼女は汗一つかかず微笑んでいる。

「おはよう。アイスは買えたかな?」

 アイスは不透明のレジ袋の中だ。お姉さんからは見えていない。

「……手違いで、他の店員さんが買って食べちゃったってさ」

「それは悲しいな……漁夫の利とは。イレギュラーな状況だったとはいえ、店員間で情報伝達が出来ていないのも悲しいことだ」

 とっさの嘘で誤魔化せたことに安堵しつつ、質問する。

「……何で、ここにいるのかな、お姉さん?」

 口から心臓が飛び出してしまいそうなくらい怖い。

 俺はこの人に住所氏名を伝えた覚えがない。なぜここまで来られる?

「キミに用があったんだ」

「それ、急ぎ?」

「キミ次第だと思うよ」

「…………じゃあちょっと待っててくれ」

「うん。わかった」

 お姉さんは、俺がどれだけ恐怖しているのかわかっているのだろうか。

 わからないから、こうして自宅前で待っていたのだろう。

 無邪気であるからこその残酷さ。一目会っただけの他人の住所を暴き立てるという一種異様な技能。存在に違和感を覚えさせる美貌。

 ここまでの情報からして間違いない。

 このお姉さんは、人に非ざる人以上の存在――それ自体が神秘の“異種族”だ。

 俺は愛想笑いを残して階段を下りていく。

 自転車に飛び乗り、力いっぱいペダルを漕ぎ出した――


      *


 ……そんなこんなで、現在はお姉さんに追い詰められたこの状況。

 『軽く撒いてしまおう』なる俺の考えは浅はかとしか言いようがなかった。

 お姉さんは走っている最中には出現しないが、一休みに足を止めるとすぐに間近に現れる。

 さながらホラー映画の演出のように。

 走る。止まる。追いつかれる。

 このプロセスを何度も繰り返し、こうして駅まで来てしまった。

「……何でついてくるんだよ……」

 あがった息を整えながら問うと、お姉さんが困ったように笑う。

「用事があると言っただろう。僕はそれを済ませねばならない」

「アイスか。アイスなのか」

 俺にはこれからもチャンスがある。対し、この人は一度きりかもしれない観光客である。

「…………っう、う」

「なぜ感極まっているのかわからないが……どうした少年」

 レジ袋から引っ張り出す。アイスは綺麗な形のままドームに収まっていた。

「昨日の……それ、どうしたんだ?」

「ごめん、嘘ついた。早い者勝ちだって言うから、開店してすぐ買いに行ったんだ」

「そうか。……昨晩はごめんなさい。とても大人げないことをした」

「……食べるの初ってわけじゃないし」

 小さい頃は親に買ってもらってよく食べていた。

 観光客のみなさんに広まってくれたら嬉しい。そう思って自分を納得させる。

 首を横に振ってみせて、パフェの見た目をしたスイーツを差し出す。

「だから、譲、る……?」

 本日の天気予報によれば外気温は29度。

 ――どうしてアイスが融けていない?

「…………」

 昨晩、ケースの前で『扉を開けていると融ける』と言って横取りしたお姉さんを凝視していると、彼女はきょとんとして俺とアイスを見比べる。

「? 何かな。気になることがあれば言ってくれていいぞ」

「……」

 嘘をついてでもアイスが欲しかったのだとわかり、俺は落胆した。

 俺を騙したお姉さんと、彼女に騙された自分に。

「……あげるよ」

「え、いや……早い者勝ちだったんだろう? それに、お代を払ったのは……」

「いいから」

 容器を無理やりにでも押し付ける。

 戸惑いながら受け取ったのを見てから、『じゃ』と地下鉄入り口に駆け込む。

 切符売り場に到達したところで周囲を確認するも、お姉さんの姿はない。

「うん……仕方ない」

 騙される方が悪いのだ。神秘を知らない俺は、インチキ商品や訪問販売に引っかかるおじいちゃんおばあちゃんと変わらない。

 見渡せば、空飛ぶホウキのおもちゃで低空飛行して親に叱られる女の子や、空中に光で絵を描くアートパフォーマンスの名残が目に映る。

 神秘は溢れているのに、俺はそれらがどうやって動いて神秘と化しているのかを知らない。

 あの女の子は学校で神秘について習う。本やテレビでとうに知っているかもしれない。何であろうと、すでに俺より詳しいことは疑いようがない。

「…………………………」

 自分に才能がないと知っても、神秘への憧れは俺の中で変わることがなかった。想像を膨らませるだけで十分に楽しかった。

 あんなに憧れた神秘を、俺は決して知ることが出来ない。

 図書館で夢中になって読み漁った本の中身は一片たりとも思い出せない。見ただけ聞いただけで昏睡してしまう。

 たったそれだけの症状ながら、たったそれだけを克服できない。

 書籍に挑むたび眠った。病院の医師たちも学校の先生たちも手を尽くしてくれた。

 しかし、そのすべては無駄足。

 気が狂いそうなほどの渇望は収まったが、羨望と嫉妬は心の奥底に淀んでいる。

 謎のお姉さんの神秘が気になっても説明されれば眠ってしまう。

 ……だから、諦めよう。

「もういいか……」

 感情を割り切った俺は、振動したスマホに土田先生と笹谷先生からの2桁を超える着信があることに気づき、笑ってしまった。

 申し訳なさ過ぎて笑うしかなかった。

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