その思考は演算

 アイスを押し付けられた女性は立ち尽くしていた。

 人の視線を集めてやまない彼女は、少年と会話してから10分も動かずそのままだ。

「……ける。融ける」

 何事かを呟く声は小さいが、傍を通りがかった人々に聞き取れないほどの声量でもない。

「融ける。アイスが融ける」

 日常を乱す光景だが、異質極まりない彼女に声をかける者もいなかった。

「ケースは時間停止しない。時間が停止した中で停止はできない。しない。……アイスが融ける。手を離した。取った。怒った。アイスを戻しても何も言わない呼吸心拍変化なし」

 薄い唇がかすかに動き続ける。

「アイスは融ける。融ける。融ける……」

 彼女の頭脳は人ならざる卓越した思考回路を約束されていた。

 それは今、少年がなぜ怒り、自分を恐れ、自分に呆れ――何に悲しんだかを理解するために稼働している。

「型番SN302号。冷凍アイスケース稼働ランプ赤。正常。冷凍食品簡易保存ケース正常。原理神秘分類スペル北海道地域小学5年秋冬時期初出。高校生既知。知らない?」

 聞こえてきた疑問文に、通りかかった女子大生が身を竦ませて駆け足になる。

「神秘を知らない。……訂正、知らねばならない。でも知らない」

「おーい、キミ!」

「認識できないわけではない」

「そこの! さっきから何を言ってるんだ!」

 駅前に怪しい人物がいると伝えられてやってきた警備員が、女性に呼びかける。

 しかし、彼女は顔をあげもしない。アイスを持ったまま佇んでいる。

「駄目だよ、人通り多いところでぼうっと立ってたら」

「アイス」

「通行の邪魔だ。こっち来なさい」

「……アイスは融けない」

「聞こえてるかな? 返事は出来る?」

 何度呼びかけても反応を返さないため、警備員は女性の肩を軽く揺すってみる。

「……聞こえてる?」

「アイスは融けなかった」

「アイス? ……ああ、これか」

 駆け込んできた女子大生が、『なんかすごい綺麗な人がアイスが融けるって言ってる』と騒いでいたのはこのことだったようだ。そう思いつつ、もう一度肩に触れる。

「あのね、キミの持ってるアイスは、時間の流れを止めるケースに入ってるから、融けないよ。そんなに心配しなくても……」

「融けないことを知らなかった」

「うん。海外じゃ珍しいのかな、こういうのは」

「融けない」

「とにかく、話聞くから。こっち来――」

「知らなかったから取り出して融けていないことに驚いた。走っている間はアイスから意識が逸れていた。それほど必死で逃げていた。信じていた。僕が嘘をついていないことを信じていた。レジを通すことでケースが有効化されることを知らなかったから僕の言葉を嘘だと思った。僕が嘘をつくほどにアイスが欲しかったのだと考えた」

 滑らかで淡々とした声音が響く。

「…………。お姉さん?」

「僕がアイスに執着をしていると思った。……彼は神秘を知らない」

 黄色い瞳の内には、チリチリと橙色の火花が爆ぜている。

「知ろうとして失敗している。諦めている」

「お姉さん⁉ あんまりふざけるとこっちも警察呼ぶよ‼」

 激した警備員の問いに彼女が答えることはない。

 たった一言、『謝罪しよう』とだけ呟き、そこから消えた。

 取り残された警備員と遠巻きな野次馬たちは、跡形もなく姿のかき消えた女性を探して見まわしたが、目立つ美貌はどこにも見当たらなかった。

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