少年、沸騰
リーネアさんのお土産は精神的にクるデザインのチョコレート。名前通りに、細菌をリアルに模してある。
製作者の精神が不安なそれを、翰川先生は盛大にはしゃいで食べていた。
「結核菌。さすがリーネア、いいチョイスだ!」
「……先生、よく食えるね……」
造形の良さに、食欲は見るだけで失せるばかりだ。
「材質は最高級だぞ? 本場ベルギー経由だ」
なぜ最高品質をドブに捨てるような真似をするんだ。
「光太も食べろ。美味しい」
「……湯煎で溶かしていいなら」
「それもまた個人選択の自由だな。カンピロバクターをあげよう」
「よりによってそれ⁉ 生肉のアレだろ⁉」
「はい、どうぞ」
「手にざらっと出そうとすんな!」
絶妙な螺旋形はチョコレートで作ったことを鑑みれば見事というほかないが、細菌の形だと思うと気持ちが悪い。
「っつーか、先生もう全部食べていいって! 大した量じゃないんだから、何日かに分ければ一人でも!」
「家主として、渡されたお土産は一つは口に入れろ。礼儀だぞ?」
「何でこういうときだけ常識的なんだよ‼」
常識の使いどころの間が悪くて仕方がない。
「わかったわかった。非病原性のにしてあげるから。乳酸菌でいいかな」
「うわあ、何もわかってない……」
「乳酸菌以外だと、ほとんど病原性細菌だぞ?」
「……」
納豆が連なったようなフォルムのそれを受け取り、口に入れる。
「どうだ?」
「美味しいです……」
香り高くて美味しいが舌の上のものを早く溶かしたい。
満足したらしい彼女はチョコを冷蔵庫に入れに行き、戻ってくる途中で、俺の父親が置いていったままのパソコンを持ってくる。
「?」
「キミがネットを使えるようにしてみた」
「……使ってないだけで、前から使えてたよ」
ブラウザを開いた瞬間に寝落ちしたのは悲しい思い出。広告バナーさえ俺には危険なのだ。
「じゃなくてだな。キミが眠ってしまいそうな内容のページを精査して、フィルタをかけて表示できるようにしてみた」
「そんなこと出来んの?」
「プログラムを組みこめば出来るよ」
昨日のパソコンによる作業はそれだったらしい。
「ちょっとアレな方法で広告を消しているから、問題が起こってもサポートセンターでは対応してくれない」
「…………」
「変にいじらない限りは何もないはずだが、異変が起きたら僕にメールをくれ」
参考書然り、パソコン然り。彼女の善意には感謝しづらい要素もくっついてくるらしい。
「……とりあえずありがとうございます」
「うむ」
ブラウザを開いたとき、咄嗟に閉じてしまった目を恐る恐る開けると――情報が一気に視界に飛び込んでくる。
だが、眠くならない。
「おお……!」
ところどころが伏字になっている記事は、神秘について書かれたものだろう。
「神秘が主体で伏字まみれになってしまうものはバツマークが出るようにしてある」
「すっごいな。いつから作ってたのさ、これ?」
興奮を抑えて問うと、先生は自分の足をマッサージしつつ答える。
「大したものじゃないよ。昨日すぐ終わらせたから」
「そういうこと聞くと先生って天才だなって思う」
あの集中がこれを作るための物だったとは……不気味に思って申し訳ない。
「僕の友人の方が賢い。これをアドバイスしてくれたのも彼だよ」
「へえ……どんな人? いままでで出て来た友達?」
「青ペンの人」
何者なんだ、青ペンさん。
「…………。とにかくありがとう。青ペンの人にもお礼言ってください。お願いします」
「了解した。伝えておこう」
「ちょっと見ててもいいかな」
「存分に楽しんでくれ」
しばらくの間ネットサーフィンをしていると、先生が口を開く。
「ところで光太」
「なに?」
「物置に、こんなものがあったんだが」
彼女が差しだしてきたのは通学カバンから引っこ抜いて投げた進路希望調査だった。
唐突に現実に引き戻された気がして、タイミングの悪さに少し苛立つ。
「提出しなくていいのか?」
「再提出くらったんだよ」
「そうか」
「まあ、思いついたら適当に書いて出すから、忘れといて」
適当な学校名を書き入れて提出する予定だ。
「見てしまうのも悪いと思ったが、生憎と僕は忘れられなくてな」
「……見なかったふりする手もあるんだから、そうしてくれよ」
「なるほど。盲点だ」
先生はしげしげと希望調査を見ている。
「トップ大学に、そこから並んで有名な公立・私立か。学部は文系でいいのか? ……確かに、これでは再提出をくらうのも仕方ないな。進路情報の先頭から適当に抜いたのが丸わかりだ」
「……」
パソコンをシャットダウンする。
「本当にこれでいいのか?」
「どうしようもないんだって。……下手すりゃ文系もまともに受けらんないかもなんだし」
大学受験でまで俺の持病に配慮してもらえるとは思わない。神秘についての記述を抜いていない問題では開始直後に寝落ちする。
「それでも、いろいろあると思うぞ。行ってみたい分野とかないのか?」
「あったらそんなふざけたこと書かないよ」
電源が落ちたのを見届けてから画面を閉じる。
「別になんだっていいんじゃないの?」
「なんだって良くないから調査票を書かされているのだろうに」
先生の口調が淡々としているからこそ、怒鳴られるよりも詰られるよりも心に刺さる。
「いまのキミではどの大学も難しいと思うぞ。精査しなければならないのにふざけるのは先生方にも迷惑だ」
それは正しい。
「事情を鑑みて期限は延長してもらっているとは思うが……さすがに甘え過ぎだろう?」
それも正しい。
「夏休みが終わったら、受験勉強はますます本格的になるだろうし、進路ごとに対策が分かれていくはずだ。進路担当もキミ一人にかかずらっていられないんだから、暇があるうちに相談した方がいい」
どれも正しい。
「就職したいのなら推薦文を書いてもらう必要がある。いまの状況では難しそうだな」
正しくて息が詰まる。
自分は配慮してくれる大人たちにやつあたりしている。思いついたことを考えもせず決めつけで言い放って煙に巻く。
そこを真っ直ぐに言葉で突き刺し、切り込むようなことを言う人は一人もいなかった。だから俺は卑屈に虚勢を張れていた。
長らくぶりに味わう怒りに、目がちかちかする。
「適当にと言っても大変だろう。調べてみたらどうだ?」
先生は正論しか言わない。出来ることならとっくにやっているのに。
「延長をしてくれるとは、とてもいい先生だな。そう思うと、これはあまりに無礼――」
暴力に等しい正論を浴びせられ続け――頭の中で何かが切れた。
先生の手から紙をもぎとり、ぐしゃぐしゃに丸めて床に投げつける。
「そんなこと、昔からわかってるんだよ!」
驚いた先生が、落ちた紙を拾い上げる。
「俺の持病知ってるなら、何でそんなふざけたこと書いたのかもわかるだろ⁉ 俺は! 神秘に溢れたこの社会から弾かれてるんだよ! 何書いたっておんなじだ‼」
震える声を抑えようとしても上手くいかない。これでは子どもの癇癪だ。
先生からは表情が消え、俺を真っすぐに見ている。
見透かされているようでイライラする。
「どうして俺が高校に入れたか知ってる? 中学の校長先生からの嘆願で、一人だけ違う問題解いたからだよ。理科と算数の問題をさ」
天才からしてみれば鼻で笑うような問題を、俺は一人解いていた。
「……どんなに惨めだったと思う? 先生たちが、いつ笑ってみんなに話すのかと思ったら気が気じゃなかった。陰で自分を嘲笑ってるかと思ったら、堪らなくなるんだ。……そうやって疑う自分も嫌になる」
「……光太、それは……」
先生の言葉をシャットアウトし、感情のままに嫉妬を叩きつける。
「先生はいいよな。完全記憶。見ただけで全部覚えられて、計算も完璧。どうせそんな記憶力じゃ、何ヶ国語だってすらすら喋れるんだろ。何もしなくたって天才の教授様だ」
「っ」
「見るだけで全部覚えられるなんて羨ましいよ。本当に。憐れむならその脳みそくれよ。無理だろ⁉ だから上から目線なんだもんな⁉」
瞳の火花が消え、痛みをこらえるような顔をしたが、俺の知ったことじゃない。
誰が好き好んで傷を抉られなければならない。
俺にないものばかり持っているくせに、それ以上何がしたいんだ。
「人に手を差し伸べる余裕があるんだ。煮詰まって切羽詰まってる俺なんて滑稽だろ……」
「そんなことは、ない……!」
「どっちだっていいよ。……どっちも変わらない。俺の病気を治そうとした母さんは借金までして消えて。借金を背負わされた父さんは、ここにしがみつく俺に呆れて出てった」
綺麗な顔が泣き出しそうに歪められ、少しだけ溜飲が下がった。
これで溜飲が下がる自分はさぞかし醜い表情をしているのだろう。
「みんなが出来ることが出来ない。どこに行ったって神秘は付きまとう。そんな俺を拾い上げる場所がどこにあるのさ?」
ようやく頭が冷えて来たが、感情が噴き出たまま止まってくれない。
こんな風に人に向かって怒りを叩きつけたのはいつ振りだろう。久しぶり過ぎて上手く制御できない。
「いまでも、外を歩いてるうちに眠って目覚めないんじゃないかって怖くなる俺は、大学行けると思う? 会社員になれると思う?」
「光太。……僕は」
「ここから出たら何もない。俺はこの世界じゃどうにもならない」
「……どうにも、ならなくは、ないだろう」
ならないよ。
修学旅行さえ行ったことがないんだから、どこにも行けない。
「もういい……ごめん、もういい。家庭教師も、いい。俺みたいなのより、もっと見込みのある生徒さん見たほうがずっといい」
常識はなくとも、頭脳は紛れもない天才だ。
「ありがとう、先生。怒鳴ってごめん」
「……いや……」
「家事も助かった。お礼にもならないかもしれないけど……ちゃんと給金払う」
「お金など、要らない。……あのな、光太。僕は」
「いいから……ほんとうに」
通帳を用意するため、保管場所のある寝室に向かう。
だが、寝室に足を踏み入れた瞬間に俺はそのままの体勢でリビングに居た。
否、戻された。
「…………は、あ?」
瞬間移動。こんなことが出来るのは先生しかいない。
俺は泣きそうになりながら先生に詰め寄る。
「まだ言いたいことあるのかよ。俺はもう全部言ったよ。言いたくもなかったことまで全部。もう見られたくないくらい」
また俺はやつあたりをしている。
「……キミがそういうのなら。僕も話していない。全部話したらこれでドローだ」
「いいって。天才の人外なんだろ。知ってるから」
先生が震えた手で紙を広げ――元通りに修復していく。
皺も破れも。俺がやけくそで書いた大学名までもが消えていく。
「⁉」
署名以外が白紙に戻った用紙を俺の前に突き出す。
「どうせ人外だから、出来ることをする」
「……先生、顔色……」
元が白いために気づきにくいが、更に白い。
「っ……う」
用紙を受け取ってテーブルに置く。突き返したら倒れてしまいそうな顔色をしている。
「せん、せい」
レモンの目にオレンジの火花が散る。やはり見間違いではない。
奇妙な現象に目を瞠っていると、先生は背を丸めてせき込み始めた。
彼女の頭が大きく揺れ――べったりと血が吐き出される。
「――」
吐血した張本人の先生は青ざめた顔で俺を見上げる。
「すまない。汚、れて」
こんなに青ざめているのに本人の表情は変わらない。今までの何よりも奇妙だった。
「……っ……」
すくみそうになる足を動かし、スマホを引っ掴んで電話マークをタップする。
「タオル、持っ、てく、る」
「寝てて‼」
ふらふらと歩き出そうとする先生を引き戻し、座布団を重ねた枕に頭をかけさせた。
119を並ばせてボタンを押しているのに電話がかからない。
「くっそ、くそ、なんで……!」
「ぅあ……」
「ごめん、先生のスマホ借りる‼」
役立たずなスマホを放り出す寸前、画面が点灯して文字が浮き出る。
『阻害してすまない。リーネアに連絡を。悪いが、救急車は極力避けたい』
先生がスマホを操っている。その意思一つで、彼女は電子機器に接続している。
レモンの瞳を取り戻した先生の両足は、太ももの半ばから外れ――不自然にスラックスからはみ出て転がっている。
――この人は、なんだ?
「……なん……え……」
『スマホを借りるよ。ごめん』
勝手に番号がプッシュされて電話がつながる。
相手が出るのに1コールもかからなかった。
『ぶっ殺すぞクソが』
「うぉわ⁉」
取り落としかけるも、『放り捨てては殺される』と本能が警告する迫力を感じ、震えた手でスマホを持ち直す。
リーネアさんの声は幼く響くのに殺意が剥き出しだ。
『家だよな?』
「い、家です。俺の……」
聞き終える前に電話が切れた。
スマホに文字が浮き出る。
『リーネアは悪気はないから』
「……人のっ、心配するより……自分のこと見てくれよ。人の気持ちも、考えろ‼」
何で俺は怒鳴ってるんだろう。
人の気持ちを一番考えていないのは、自分のくせに――
「ん……ぅ」
先生からの返事はなかった。頬をつついても目覚めない。
急いで洗面器を取りに行き、口の中に残っていた血を吐き出させる。座布団を重ねて姿勢を変え、気道を確保。床に残った血はそばのTシャツで拭った。
血を吐いた原因もわからないまま、リーネアさんからの音沙汰を待つ。
「……」
先生の両足は膝の少し上くらいからしかなくて。彼女の足だと思っていたものは、足そのもののように精巧につくられた義足だった。
リーネアさんが『椅子を用意しろ』と言ったのはいちいち床から立ち上がらせないため。
先生の厚手のズボンは継ぎ目を見せないため。
すべて繋がった。
呆然としたまま長い時間が経ったとき。リーネアさんは予告もなく、開いていた窓から滑り込んで――そして、俺の後頭部をかすめて着地する。
「ぉおわあ⁉」
問答無用で覚醒させられた俺を顧みず、先生のもとに駆け寄って腕や首に触れていく。
「……おい、そこの」
「な、何ですか? ……俺は、何も……」
殺気とでも呼ぶべき何かをリーネアさんは纏っている。
人を殺せる猛獣がこちらを睨むとき、こんな恐怖を味わうのかもしれない。
「ひぞれが無理すんのはいつものことだけど、現実から逃げてばっかのやつにまでそうしてほしくない。お前はほんとに何にもしてないだけだろ」
「! ……」
彼は苛立ちを抑えるように深く呼吸し、静かに言う。
「病気ってよりはこいつの体質のせいだから。しばらくしたら治る」
リーネアさんが両方の義足に触れると、義足は桜色のキューブに変わる。
その二つと先生を抱え上げて俺に告げる。
「病院はあとで知らせる。……水でも飲んで落ち着け。悪かった」
「……は、い」
「ん」
「ドア……開けてますね」
「ありがとな」
見送るつもりだったのに足が動かない。海色と夕焼け色がドアの向こうに閉じていく。
「…………」
ぼうっと動かした目線がノートパソコンで止まる。
画面を開き、電源ボタンを押し込んだ。デスクトップが映る。
「かんかわ、ひぞれ」
eを象ったブラウザのアイコンをクリックし、検索バーに先生の名前を打つ。
《かんかわ》と打った時点で、《翰川緋叛》が検索候補に挙がってきた。
フルネームの隣に《研究》《講演》といった言葉がくっついて候補に積み重なっている。
シンプルに《翰川緋叛》をクリックし、トップに出て来たネット百科サイトを開く。
『翰川緋叛』
『神秘分類:コード。種族分類:人工生命』
あっけなく表示されたのは予想だにしない答え。
使い慣れないマウスを動かして《人工生命》のリンクを辿る。
『人工生命とは、名前の通り人工的に作られた生命である』
そんなこと、名称を見ればわかる。
『形態は人間に近いものからその他まで幅広く存在する』
『人工妖精とも呼ばれるが、魔術によるものと科学技術によるものとで製作過程が大きく異なるために議論が分かれている』
『科学と魔術のどちらにおいても禁忌とされる手法が多く、国によっては存在自体が違法とみなされることもある(要出典)』
『知能段階によって人権を与えるかどうかも難航しており――』
その時点で、俺はウィンドウを閉じていた。
「……っはあ……‼」
いつの間に息を止めていたのか、呼吸を整え損ねたように苦しかった。
「げほっ……」
本人に問いただす勇気もなく、多くの他人が紡いだ文章に縋って。
そして、この手段をくれたのは先生やその友人。
俺は何をしているんだ?
「…………」
惨めだ。
たとえ俺に持病がなくとも、俺はこんな人間になっていたのだろう。
唇を噛み、もう一度ブラウザで《翰川緋叛》を検索する。
惨めならば惨めなりに、最後まで知るべきだと思ったから。
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