第五章 正体は

少年と先生

「おかえり」

「…………」

 家のドアを開けると、翰川先生がリビングを掃除していた。

 予想を大きく超えるものに出会ったとき、人の思考は空白に覆われるということを実体験で理解したが――特に理解したいものでもなかった。

 思考の空白をなんとか押し流し、ワイパーをかける先生に問いかける。

「……何でいるんだ、先生?」

「家庭教師ということで掃除をしている」

「それ家政婦の領分じゃないすかね。っつか、どうやって家に入ったの? うちのドア、カードキーなんだけども。ピッキングとか無理だよな?」

 販売元以外には複製が不可能なデータカード……というのが売りだったと記憶している。

「はは、僕の前で電子錠は無力だな。所詮は数字の塊だよ」

「あはは、何笑ってんだこの犯罪者」

 部屋を見渡せば、洗って乾かしたままだったペットボトルは袋にまとめられ、昼に放置した勉強道具はテーブルの端にある。台所では茶碗と小皿も洗って乾かされていたし、冷蔵庫には買った記憶のない食材が下ごしらえされて収められていた。

「…………。先生、ちょっと来て」

 リビングに戻り、座布団を用意して先生を手招きする。

「? なんだろうか」

 ここで純粋な気持ちで『家事してくれてありがとう!』と言えるわけもなく、俺は懇々と不法侵入について言い聞かせ始めた。

 初めは不思議そうにしていた彼女が、やがて妙なことを呟く。

「おかしい。友人がやっていたゲームでは、家庭教師は主人公の家に住み込みだと……」

「おかしいのはあんたの頭だ! それ絶対ギャルゲかエロゲだろ⁉」

「家庭教師を引き受けたら宿を貸してもらえるのだと思っていた」

「どういう解釈⁉」

「友人が教えてくれた」

 その人は暴走する先生を面白がっているに違いない。

 ひたすら不思議そうな翰川先生の前で、家庭教師ヒロインについて自分が過去にプレイしたギャルゲーの体験談も織り交ぜながら伝える。

「そうか。家庭教師は不法侵入をしてはいけないんだな!」

「ゲームと現実をごっちゃにしないでください」

 何が悲しくてお偉い教授さんにこんなセリフを言わねばならないのか。

「ごっちゃになっていないもん。テ○リミノは落ちてこない」

「その発言はかなりアウト」

「車を素手で破壊することは常人には不可能だし、キノコを食べても身長が伸びたりしない。わかっているとも。僕の友人は偉大なんだ!」

 びっくりするほど何もわかっていない。

「その人信じない方がいい人だと思うよ。ていうか大丈夫? 詐欺に遭ったりしてない?」

「無論だ。お金が欲しいと電話がかかってきたから激励に偽札を贈ったら、相手が逮捕されて友人に怒られた」

「結果論過ぎて詐欺師が可哀想……」

 なぜ贈ろうと思い立ったのかも意味不明である。

「って。さっきから友人友人言ってるけど、その友人って同一人物?」

「別人だよ。……分かり辛かったな。すまない」

「謝られましても」

「そこはまあとりあえず。キミがどうして怒っているのかはわかった」

「お、おお。良かった……」

 彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。

「僕はギャルゲーに分類されるゲームは苦手だ。友人のプレイを見たくらい。……今から家庭教師ヒロインの出るものを探して来よう。勉強不足だった」

「先生さ、昨日もっと頭良くなかった? なんでそんなに頭悪い感じになっちゃうの?」

 自分が恐怖さえ覚えていたのが実は錯覚だったのかと思ってしまいそうになる。空しくなるから正直やめてほしい。

「その友人を呼ぼうか? 頭がいいから家庭教師もしてくれると思うぞ。だから僕は不法侵入をしていない」

 教授なのかすらも疑いたくなってきたが、何とか抑えて言いたいことを伝える。

「……俺が言いたいのは、家庭教師を引き受けただけじゃ不法侵入が許されるわけじゃないってことだよ。論点そこね」

「鍵が単純だったから、形式的なものかと思っていた」

「先生にとっての鍵って何?」

 『簡単な鍵なら開けていい』と考えていたとは、空き巣より厄介な価値観だ。

「…………。申し訳ない」

「よくそれで社会生活送れてるよね?」

「……実は友人にも心配されている……」

「愛されてるのかいじられてるのか」

 先生は困ったように顔を俯けてぽつりとつぶやく。

 天地がひっくり返ってもおかしくはない、衝撃の一言を。

「……夫に叱られちゃう……」

「夫⁉ その奇天烈な常識で既婚⁉」

 俺が年齢=恋人居ないの一方、奇行を連発する人外は結婚済み。世の中は理不尽だ。

「? うん」

「いや、待て。待てよ。それなら、結婚指輪とか!」

「あるよ。仕事の関係でネックレスにしているが」

 しゃらんと音を立て、チェーンに通った金色のリングがペンギンバッグから現れる。

 そのまま先生の手のひらの上に落下した。

「……先生が妄想を補強するために買っただけという可能性も」

「僕はちゃんと既婚者だもん!」

 ぷんすかする先生は自分のスマホを引っ張り出し、ある写真を表示した。

「夫があまりに可愛かったので隠し撮りしたものだよ」

 臆面もなく言った先生のスマホ画面には、宝石のようにきらめく赤髪の美青年が先生のものと同じ指輪をはめて照れくさそうに笑って――

「うぼああああああああああああああ」

「っ⁉ こ、光太⁉ なぜゾンビみたいな動きで頭を壁に打ち付けているんだ⁉ 音が冗談で済まされないことになってるんだが……‼」



 お隣さんに『近所迷惑だ』と叱られ平謝りするうち、俺はなんとか自分を取り戻していた。

「……ひとまず、家事をしてくれてありがとうございます」

「ごめんなさい」

「年頃の男子の家に押しかけてきて旦那さんに怒られないの……」

「? 済まないが、夫と比べたらキミなど子供だ」

 思ったよりぐさりと来た。

「……。よく結婚できたね?」

「常識に疎い僕を見守ってくれる優しい人だ」

 疎いどころか無いだろうに、要らんところでポジティブな人だな。

 ぼけっとする俺の前で先生が小さく呟く。

「勘違いしていたからもうチェックアウトしてしまったんだが……」

「何でこんなアホな人が教授やれてんだろ……」

 大学が立ち行くのかすら怪しい。

「僕以外の教授陣はとても常識的だよ」

「問題児の自己申告ということでよろしいか」

「もっ、問題児じゃない! 僕は生徒を病院送りにしてないもん!」

「他の人も常識人じゃねーだろそれ……」

 生徒を病院送りにする常識的な教授とは何ぞや?

「う……生徒が教師に歯向かうとは」

「教師だってんなら、まだ俺はあんたから何っにも教わってないんですけども?」

 教えてくれたのは参考書の青ペンの人である。先生の癖のない癖字とはかけ離れて筆跡が変わりまくっていたので、同一人物でないのは明らかだ。

 俺のセリフを受け、先生が座布団の上で姿勢を正した。

「これから教えるよ。僕の分野は物理だが、他の科目も嫌いではない」

「好き嫌いで勉強が出来たら凄いね」

「勉強なんてそんなものだ」

 嫌味が流された。これが凡人と天才の違いか?

「ちなみに、キミの理系選択は化学と物理でいいのか?」

「……勉強道具漁ったって言ってたっけ」

「数学しか見ていない。生物は神秘のいきものばかり。地学は魔法が大きく関わっている。ということは、どちらの科目も問題文を読むだけで眠ってしまうんじゃないかと思っただけだ」

「……先生って探偵か何か?」

「教授だよ。僕がしてるのは消去法だから、本職の探偵に失礼だぞ」

 フィクションの探偵と現実世界の興信所を見事にはき違えているようだった。

 俺はそれ以上掘り下げるのを諦めて、ノートを開く。

「……じゃあ、教授先生。ここはおひとつ、物理をお願いします」

「了解。神秘は抜きだ」

 先生はときに参考書通りに、ときに定石を無視して俺に知識を与えてくれた。

「物理は、どの方向にいくつの矢印を引くかがわかればなんとかなるよ。問題によって登場する力の種類も決まっている。ならば計算方法も決まっている。コツを掴んで丸暗記だ」

「俺、重力と摩擦力しか知らないんだけど」

「おいおい教えていくよ。縦は縦、横は横で比較する。とにかくこれを徹底しろ」

「どう見ても斜めの矢印が」

「斜めが出て来たって、サインコサインで分解してしまえば同じだ」

「書き込んでったら意味わかんないよ?」

「安心しろ。たかが高校物理で難しいものは出ない。理屈を抜きに、上下左右対称に矢印が飛び出ていたら、対称に合計が等しいのだと思っておけ」

「釣り合ってるのにモノが動く理由がわかんないんだけども」

「解説を理解するのと、それはそういうものだと割り切るのではどっちがいい? 好きな方選んでいいぞ。どっちでも解けるから」

 非常にざっくりとした教え方は青ペンさんと似ている。『わからなくとも割り切って解けるならそれでいい』と、様々な手段を提示してくれる。小学時代で理科が止まっていた俺には非常にありがたい。

「ちなみに、補講はどういう日程で組まれているんだ? ぶっ続けか?」

「そこまでじゃないよ。行く度にテスト受けるみたいな感じ」

 学校の先生方には申し訳ないことだが、普通の授業では受けるだけ無駄になってしまう。

 なので、辛うじて微かな点数を拾っていくテストを積み重ねて、基準に達したら合格というシステムにしてもらっているのだ。

「大変だな。ちなみに、そのテストには神秘は含まれているのか?」

「含まれてたら寝てるよ。合計で一定の点数が取れたら終わり。……俺はその点数が取れないから補講なわけだけどさ」

「そうか。では、早く先生を解放してあげよう」

「ヒロイン救出風に言われても、ゴリラだからなあ……」

「類人猿が教師をしているのか。先進的な学校だ」

「猿に学問教わるほどアホだと思われてんの、俺?」

 ぐだぐだと駄弁っていると、先生がふと顔を上げた。

「そろそろ7時だ。夕食にしよう」

「……ん。おお、ほんとだ」

 先生がつくった冷やしラーメンはとても美味しかった。

 気の迷いで『旦那さんってどんな人?』と聞いたら惚気られ続けたが、いい思い出である。

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