真面目な人がうっかりさんではない確率を求めよ
俺は地獄の数学講習を乗り切った。参考書で習得した数学は中学レベルであったので、微積分というモンスターには歯が立たなかった。補講をしてくれる笹谷先生には申し訳ありませんとしか言えない。本当にすみません。
約束通りに3の2の教室に向かうと、彼女は座って俺を待っていた。
窓からの日差しを避けてか廊下側の席に座り、文庫本を読んでいる。ボブカットの黒髪は微風にさらさらと揺れて、灰色がかった瞳は光に当たってもいないのにきらきら輝いていた。
彼女は俺を見るなり本を閉じて明るい笑顔で手を振った。
雰囲気のおかげで『なんだよ、告白されちゃうのかよ』とか思ったが、今まで接点がなかったので希望は薄いと見た。
妄想を振り捨て、俺も机を突き合わせて座る。
「ええと。三崎さん……で合ってるよな?」
「うん。いきなりごめんよ」
可愛い顔だちを真剣な表情で彩るのも、凛としていて美しい。
「どうしても、聞きたいことがあって……」
「?」
「昨日、駅上の喫茶店のあたりで誰かと話してたよね?」
「……ほんとに見てたんだ」
助け船を出してくれたときは女神かと思った。嘘ではなかったとわかると更に神々しい。
「あ……ごめんね。盗み見したみたいになっちゃって」
「そのお陰で助かったんだから、気にしなくていいって」
助けは助けだ。
「そ、そう? なら良かった」
「あ。そうだ。話聞く前で悪いんだけど……」
安全のために俺の持病について伝える。話している途中で俺がいきなり昏倒したら、彼女にとってもトラウマになりかねない。
説明を聞き終えた三崎さんが問う。
「かなり重いハンデだけど……大丈夫なのかい?」
その口調は肩ひじを張ろうとしているようで可愛い。
何気なく俺の状況を察してくるあたり、頭の働きの違いも感じる。
「大丈夫。細かく説明されたら寝ちゃうから。そこだけはってことで」
「わかった。気を付けるよ」
冗談かと聞き返したりもせず、三崎さんがこくんと頷く。可愛い上に優しい。
「で。用ってのは?」
「昨日話していた人と知り合い?」
知り合いというかなんというか。成り行きというか……答えづらい質問だ。
「もしそうなら、どんな人か教えてほしいんだ。私の先生と友達みたいなんだけど、はぐらかして教えてくれなくて……」
『私の先生』ときた。そのワードがどんな意味を持つかで展開が大きく違ってくる。
具体的には、翰川先生の友達が『類は友を呼ぶ』でないことを祈る。
「あっ、先生っていうのは、同居してあれこれ教えてくれてる人なんだけど」
よからぬ想像が止まない。
「先生がお友達に会わせてくれるって……でも、会って話す前に、どんな人か先に知っておきたいんだ」
俺は地蔵にでもなったつもりで彼女の話を聞いていた。
「悪い人じゃないと思うんだけど、不安で……ごめんね、こんな話で」
「……その先生って、男性?」
「うん」
男性と同居とは爛れている。
隠れファンの死亡フラグに伝えたらどんな顔をすることか。とても伝えられない。
「……三崎さん、大人なんだね……」
辛うじてセリフを絞り出すと、彼女は照れたように顔を赤くして首を振った。
「そんなことないよ。私なんて全然……あの。やっぱり知り合いなの?」
「知ってること大してないよ。三崎さんが期待する答えは出せないんじゃないかな……」
あれこれ教えてくれる男性と同居中で、なおかつそのご友人まで気になる程『先生』への興味が深いというあたりで、彼女を取り巻く状況の話は打ち止めにしていただきたい。
さりげなく席を立とうとする俺の手を、繊細ですべらかな手がつかんだ。
「感じた印象だけでもいいんだ」
上目遣いの破壊力で心臓が跳ねて痛い。
「……教えてくれないかな……?」
何でこの子の瞳は柔らかに輝いているんだろう?
俺は結局、振り切れずに椅子に座り直す。
「わかったよ」
「ありがとう!」
手が離れるのは名残惜しかったが、ずっと握られても緊張でまともに話せない。
とりあえず、言えることだけ選んで伝えてみる。
「アイスを奪い合って俺が勝ったんだけど滅茶苦茶ストーキングされて鬼ごっこして駅まで行ってパスケースを届けてくれた後になんだかんだで俺の家に行って家庭教師をお願いすることになったんだ」
「何があったらそうなるの?」
「俺もよくわかんないんだよね……」
よくわからないうちに家庭教師になってもらってしまった。
「ハンデを聞いて名乗り出てくれたけど頭良すぎて面食らうというか、常識が残念というか」
「……どんな風に残念なんだい?」
俺は限られた語彙力を駆使し、翰川緋叛という存在についての印象を伝える。
非常に頭がよろしくて、超記憶だとかいう能力を持っていて、神秘の使い手。
見た目も常識も浮世離れしてしまっている。
要約すると二文で収まるのに、詳細を付け加えるとなると相当にわかりにくかっただろう俺の説明を聞き、三崎さんが思案する。
「どういう神秘だったかはわかった?」
「いや、そこまでは……」
瞬間移動を使っていたから、魔法系なのかもしれないと予想している。
「……そっか。教えてくれてありがとう」
ぺこりと頭を下げる。
「え、こんなんでいいの?」
まだ先生自体の名前を伝えていない。
そう思ったが、首を横に振られた。
「先生よりましだってわかったから十分だよ」
「何もよくないよね」
『先生』について判明した情報は『先生』が翰川先生よりも常識が酷いということだけ。
「大丈夫? 洗脳とかされてない? あ、親御さんとも一緒に住んでるの?」
「? ふたり暮らしだよ」
年頃の女の子と男性が二人暮らし。大変だ。大変すぎて混乱してきた。どうして美少女の爛れた恋愛事情を聴かされなければならない。というか、三崎さんも少しは躊躇うべきだ。
俺の前で、三崎さんは頬を染めるでもなく、当然とばかりに口を動かす。
「中3のときから、ずっとお世話になってる人なんだ」
「あわわわ」
「性格に難のある人だから、友達って……森山くん? どこ行くの森山くん⁉」
俺は秘密の重みに耐えられず、廊下を疾走した。
数分後、絶叫しながら走っていたせいで講義中のクラスの教師に叱られた俺は、追いついた三崎さんに捕まって3の2に連行されていた。
三崎さんの走りが思ったよりも速くて驚いた。
妄想に近い俺の勘違いを聞いた彼女は、赤い顔でぷりぷりと怒っている。
「先生は先生だよ! 恋愛対象になりもしない、お父さん代わりのお兄ちゃん!」
聞くに、母親と深刻に不仲だった彼女を引き取り、保護者をしているのだとか。
「いやあ……あんな感じで言われたら……『先生』がどんな人かも知らないのに……」
誰だってあれを聞いたら勘違いすると思うのだが、三崎さんは怒ったままだ。
「先生が常識ないから、そのお友達だって聞いて予習しておきたかっただけだよ! 夏休み中に紹介するみたいに言ってたから‼」
「……スミマセン……」
まったくもうと言うなり、彼女はスポーツドリンクをぐい飲みする。
さすがに女子が元陸上部を追いかけるのはきついものがあるよな……
「ごめん。三崎さん……」
「もういいよ……気にしてないから。で、森山くんは何を聞きたかったの?」
あんな醜態を晒してしまったのに、こちらの用件も聞いてくれるらしい。いい人である。
俺は首を横に振って彼女に言う。
「いや、いいんだ。聞きたいことは、もうわかったからさ」
「へ? 何で?」
スマホを起動し、友人の死亡フラグから学校到着直後に送られてきたメールを表示する。
そこには『3の2三崎がリア充』という題名で、白い車を背景にして彼女と謎の人物のツーショット写真が映っている。
「…………」
ドリンクを飲んでいた三崎さんが凄い顔をした。
スマホを俺から奪い取ろうとする彼女を躱して、ボトルに口をつけたままでは危ないからと椅子に押しとどめる。
「げほっ……ぐ。……何、そのメール⁉」
写真の男性が『先生』だと言うのならば、親しげなツーショットも腑に落ちる。
俺は『彼氏じゃないらしいぴょん』と死亡フラグに返信する。
そんなわけで、俺が彼女に聞きたかったことはもうすでに終わってしまったのだった。
「……先生が髪束ねてる……模試の日か」
模試を受けるなんて真面目だなあ、三崎さん。
「これ、なに。なにこのメール?」
「ネットに触れられない俺に、有志の友達が学内ニュースを選抜して送ってくれるんだよ」
三崎京という名前は、点数順位が張り出されれば、どの教科でも5番以内に入る。性格も見た目もよし。誰にも気さくに応じる性格で、複数の友人と交流している。
3年男子の裏人気投票で第1位を飾る彼女は、いろんな意味で有名人だ。
掲示板を見ることも出来ない。リアルタイムの事件に参加することもできない。そんな俺がようやく掴んだニュースである。ここで逃すものかという意地もあった。
かくして、我らが平沢北のヒロインの潔白はここに示されたのだ!
達成感で一息つく俺を三崎さんが怒鳴る。
「何で私の方だけ目線⁉ 先生はスタンプで顔隠れてるのに!」
それはまあ、『先生』の方は学外なわけなのでそういった事情ではないか。
「記事あげた奴に言ってください」
「私そのサイト知らないんだけど、どこ⁉」
「学校ホームページの背景色に紛れて、URLがあるそうです」
俺の説明を聞いた彼女が取り乱し始める。
「ごめん、それ貸して」
「読むよ。『平北のヒロインこと3の2三崎が、学力模試の帰りに謎の人物と――」
「プライベートだだ漏れってこと⁉」
「この記事書いたの俺の幼馴染なんだよ。代わりに謝っとく」
「最悪だねキミの幼馴染!」
「そこは同感だなあ……」
何度貸した金を踏み倒されたことか。
怒っていた三崎さんは、次第に陰鬱な表情に変わってきた。
「え、待って、出回ってるってこと……?」
写真や個人情報は、神秘の技術によってあらゆる場所から完璧に削除することができる。そういったツールはサイトやアプリなどに必ず埋め込まれているらしい。
この目線写真も記事も、ネットにあがったからには時間経過ですべて消滅してしまう。
神秘を使った技術により、個人情報が永遠に消えないという問題は解消したのだ。
幼馴染と死亡フラグからの受け売りを伝えると、彼女が胸を撫でおろす。
「なら良かった――じゃないよ! 見た人の記憶が消えないじゃないか!」
素でノリツッコミをするとは器用だなあ。
「そもそも、その人が私の先生だよ。教導役さんだからね」
「きょーどうやく?」
「検査に受かった子どもの元に派遣されて、神秘について教え導く人のことだよ」
なるほど。それで『先生』と呼んでいるのか。……って。
「……三崎さん、神秘持ちなの?」
「え……ああ、うん」
「…………。そっか、凄いね」
まさかこんなところに検査に受かった人がいるとは。
「そんなこと、俺に教えてよかったの?」
「大丈夫。神秘を持ってても、私はまだまだだから。それに、友達に聞かれたら話すようにしてるんだ。……先生と会って誤解される前に」
彼女の友達以外は現在進行形で誤解している。言わぬが花だ。
「……友達が黙ってるなら面白がってるんだろうなあ……」
「……なんかごめん」
軽い気持ちで妙なことを言ってしまった。
「いいよ……知らない方がちょっと嫌だしね」
「幼馴染にも後で言っとくよ」
会話をするうちに、話の焦点は再び『先生』へと動いていった。
「先生は戦争が服を着て歩いてるような人だよ」
「……三崎さんって、中学2年から引きずってる人?」
「会えばわかるよ。紹介する?」
「具体的にどんな感じ?」
「口より先に手が出る感じ」
「会いたくない感じかー……」
「暴力は『殴っていい』って判断した人だけにしか振るわないからセーフだよ」
「三崎さんにとってセーフってどんな意味? 逮捕されるまで?」
彼女はそんな人物と共同生活をして無事なのだろうか。
「あっ……い、いや。うん。大丈夫。キミがイメージするより優しい人だよ」
「ごめん、三崎さんの説明から優しさが感じられない」
「説明が難しいなあ……伝わりにくいけどすごく優しいのに」
彼女はしばらく悩んでいたが、やがて振り切って机に身を乗り出し、俺に問いかける。
「で、キミの先生って銃は使う?」
「その質問必要ある⁉」
ヒロインのキャラが壊れていく。
聞いている方が不安になる質問ばかり飛び出す彼女に悪戦苦闘していると、彼女のカバンから小さな振動音。
「……三崎さん、スマホ鳴ってるよ」
「えっ……わわ。先生だ」
猫のカバーつきのスマホを取り出して、わたわたと両手でいじっている。可愛い。
「で、何だって?」
「……帰りが遅いから、心配してるみたい……」
外は日が暮れようとしていた。女の子を暗い中帰らせる気にはならないし、『先生』からの連絡は区切りが良い。
「じゃあ、もう解散にしよう。暗いし危ないよ」
「う……ごめんよ、付き合ってもらって」
「気にしてないよ」
わたわたしながら荷物をまとめる三崎さん。やはり可愛い。
「じゃあ、またね、森山くん!」
「うん。またね」
手を振ってから駆けていく彼女の足はやっぱり速かった。
――*――
急いで階段を下りて、靴を替えて玄関から飛び出す。
校門の傍に、白のワンボックスと、まさに今の空に溶け込むような夕焼け色が見えた。
「……先生!」
息せき切って走ってきた私の額を、先生が軽く小突く。
「メールくらい入れろ」
「ごめんなさい……」
「別にいいけどよ。ほら、さっさと乗れ」
こっそりと車の下を覗き込むと、おじさんと目が合い、なんとなく会釈する。
私が後部座席に乗り込むのと先生が運転席に乗り込むのは、ほとんどずれがなかった。
「じゃ、出る」
「はい」
先生がアクセルを踏むと、体が緩く加速感に包まれる。
私はこの瞬間がとても好きだ。どこにでも連れて行ってもらえる気がして、心が弾む。
「先生、どうして迎えに来てくれたんですか?」
「なんとなくだ。……なんとなく、『邪魔しなきゃ』って気がした」
先生はたまに本当によくわからないことを言う。理屈のない直感とでもいえばいいのか、こればかりは追及しても詳細を教えてくれないことがほとんどだ。
「そうなんだ。お迎え、ありがとうございます」
「どういたしまして」
運転手にみだりに話しかけるのはマナーとしても安全上の観点からもよろしくない。たまにぽつぽつと一言ずつ交わすくらいだ。
シートに体を埋めながら、私は森山くんに話しかけた目的を思い出していた。
「……家庭教師さんの名前聞き忘れちゃった……」
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