第四章 少女天然
夏休み登校ってダルくないですか
「…………」
なんとなく夢を見ていた気がするが、頼んでもいない暑い日差しにほどけて消えた。
まずは状況確認。現在時刻は朝の8時。ここは俺の部屋で、俺は布団に寝転がっている。
「……先生……は、いないか」
筋肉痛の足を動かして布団を這い出ると、食卓テーブルに手紙があった。
印刷された文字としか思えない字は翰川先生のものだ。
『挨拶もせずに出て申し訳ない。キミを眠らせてしまったことも重ねて謝罪する』
「……だよなあ」
見送った記憶がない時点で予想はしていた。
神秘について何事かを言われ、俺はそのまま寝落ちしたのだろう。
『食器は勝手ながら洗わせてもらった。また、教材も見させてもらった。神秘について書かれていない純粋な教材を用意してみたので、良ければ使ってほしい』
『時停装置の中にコンビニ弁当を入れておいた。補講を頑張るように』
夜8時に眠らされれば朝8時に自動で目覚める。学校を出るのは12時だから、勉強時間も十分にある。手厚いサポートだ。
あの人は本当に何なんだと微妙な気持ちになりつつ、厚意を無駄にするつもりもないので、参考書に手を伸ばす。神秘の要素がない参考書があるなど知らなかった。
お堅い内容かと思ったらそうでもないのか、初歩から解説してくれている。
「初心者向けか。わかりやすそう……」
異なる筆跡で複数の書き込みもなされている。
その割には、受け継がれた伝統の本というほどの擦り切れがないのは不思議だ。
「……。ま、いっか」
観察の末、考えていても始まらないと息を吐く。どうせ考えるなら勉強に頭を使うべきだ。
昨日の残った親子丼は冷蔵庫にタッパー入りで保存されていた。冷凍ご飯とともにレンジで温め、二つ丸ごと器に入れて口にかきこむ。
皿は洗い桶に浸け込んで、食卓もとい、勉強机に役割を変えたテーブルに戻った。
「よし!」
俺は約6年ぶりに、数学と真正面から向かい合った。
初めのうちはのめりこんだ。眠らずに勉強出来ることがこんなに嬉しいとは知らなかった。
だが、いかんせん、俺は無知だった。二次関数の軸がなんやらx軸がなんやらだのと言われて、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。
しかし。青ペンによる書き込みは、絶望していた俺に『諦めるのは早い』と訴えかけた。
参考書の解説図にさらに補助線と矢印を書き入れ、着目すべき重要なポイントを浮き彫りにしてくれた。これでわからなければ本物の馬鹿であるとしか言いようがないほどにである。
その記述からは、書いた人物がいい意味で常識にとらわれず、自由に問題を解いていたことが伝わってきた。
ど素人の俺にはわからないことも多かったが、青ペンが俺を見捨てることはない。『わからないなりに頑張れ』とばかりに次々と違う解き方を提示してくれる。
俺はその解法から自分に合ったものを選び、挑めばいいのだ。
失敗しても、青ペンと解答を見てまた挑戦する。
「……出来た……!」
ついに、答えも解説も見ずに練習問題を解ききった。解答を確認しても間違いはない。
何という感動だろうか。
次のページに移るとテーマが確率に変わったが、またも青ペンは多角的な分析と客観的な視点をもって、問題と解説にコメントを入れてくれている。
たまに『この参考書を書いた人は無能だ』とか書かれていたが、それもご愛敬の人間らしさと解釈して楽しむ余裕も出て来た。
ページが尽きたので、久しぶりに新品のノートを取り出す。
勉強が楽しいとかそういうことではない。挑むことさえ出来なかったものに向き合えているというだけで、俺は嬉しくてたまらないのだ。何より眠る恐怖がない。
慣れてしまえば感動は薄れるのだろうが、この日を忘れることはない。
たった一人で取り残されていた場所に光差されたようにすら感じたのだから。
「……21分の4……合ってる」
答えが一致するごと、じわじわと嬉しさがこみ上げる。
確率は比較的とっつきやすかったこともあって粗方理解できたように思う。
さらにページをめくるや否や登場したのは、三平方の定理にまつわる記号たちだ。
そこでも、ページを開いた時点でいくつもの書き込みが見えた。サインコサインの値を手早く確認する方法や、作図のコツなどをわかりやすく解説してくれている。
『これでわからないなら三角定規でも見ろ』
投げやりな書き込みもやはり時折人間らしくて面白い。
躓いては青ペンに導かれ、問題を間違えては解説を読み、また青ペンに戻る。
『試験で出る問題など決まっている。問題の派生の方向性を知っておけばいい』
「おお……」
実用的なアドバイスに感動しつつ、他の書き込みにも目を通す。
『白紙など採点者は腹立たしいだけだ』
『今まで何をしてきた』
『数学が役に立たないと言いたいなら数学者全員の前で叫べ』
『自分の愚かさを棚に上げるな』
『考えてからものを言え。それとも考える頭の中身もないのか』
『死んで生まれ変わってくればいいのに』
『死ね。速やかに死ね』
『現代国家の多くが法治されていることに感謝しろ』
『死体遺棄が罪にならなければお前など殺して埋めている』
『夜道に気を付けて死ね』
「……………………」
暑い日差しが降り注ぐ部屋の中、冷や汗が出て来た。
参考書の佳境に向かうにつれて青ペンの苛立ちが凄まじい。
翰川先生は何を思ってこんな殺意に満ちた参考書を寄越してきたんだ。いや、わかりやすいんだけどもさ。
どうも気になって、初めの方程式の単元に戻る。
「……いーち、に……さんよん……?」
数えてみるも、筆跡からは別人が交替して書いたとしか思えない。
二冊目もそうなのかと手を伸ばしたその時、電子音が思考を遮った。スマホが、たったいま送られてきたメールを表示する。
送り主は翰川緋叛だった。
『もう12時だ。起きているとは思うが一応伝えておくよ』
慌ててスマホを掴もうとすると、メールが続いているのが見えた。
『PS.弁当忘れず。クッキーと謝罪の件もよろしくお願いしますごめんなさい……』
あの人は千里眼を持っているのかもしれない。
クッキーの紙袋と弁当を引っ掴み、リュックを背負って外へ向かう。アパートの階段を二段飛ばしで駆け下り、カゴに荷物を固定して自転車に飛び乗る。
日差しは暑くとも、風は涼しく心地よかった。
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