試し読み その2
昼過ぎと言われていたルトヴィアス王子の
アデライン
日差しはやや強いが、風が出てきたので過ごしやすい。
「少し
アデラインの
「お父様、お
「それはそうだが……」
ファニアスは懐中時計を上衣の内側にしまったが、またすぐに出して時間を確認する。そわそわとアデラインの周りを歩き回り、実に落ち着きがない。騎士団の旗がバタバタと音をたててたなびいている。アデラインは
(このまま風が
そうすればきっと王子の到着は遅れるだろう。
そんなアデラインの周りには多くの貴族がひしめきあっていた。若い女性が目立つのは、ルトヴィアス王子の目にとまることを期待して、多くの貴族が
名のある貴族の多くは自らの娘をルトヴィアス王子の側室にと、宝石を
アデラインにしても、その考えはまったくだと思う。ルトヴィアス王子はきっとすぐに美しい側室を
その時、強い横風が
「花帽が!」
アデラインが気づいた時には、ミレーがハーブを
アデラインの花帽は、その大傘が倒れた向こうに
ファニアスが娘を
「アデライン?」
「花帽を取ってきます」
「
「
いったい花帽はどこまで飛ばされたのか。
少し身を
「ねえ、アデライン様よ。
「王子
「
振り返ると、
きっと王子の側室に選ばれるのは彼女達のような娘だろう。
彼女達は、元はアデラインの親しい『友人』だった。いや、友人と思っていたのはアデラインの方だけだったのだろう。彼女達は、ただ自家の
そして、たとえ未来の
「見て。花帽を飛ばされたみたいよ。
「あの
アデラインは顔を
名家の令嬢なら、宝石を縫いつけたり金で
そして自らの姿を見下ろした。
『侍女でももう少しまともなドレスを着るわ』
確かに、
(田舎娘、か)
田舎娘にも失礼かもしれない。
(でも、私はこれでいいの)
アデラインが
女性は結婚すると花帽に
アデラインも、以前はそうしていた。
装うことを
ファニアスの言いたいことはわかっている。マルセリオ家と王家の
(でも、
昔は、アデラインも
そしてそこへルトヴィアス王子との
鏡から、自分から、現実から目を
どんなに
地味でいい。目立たなくていい。いっそ侍女のドレスを着てしまえば令嬢達に見つかることもないかもしれない。
とにかく目立たないこと。それが、アデラインが自分を守るただ一つの方法だった。
背後で騎士団のラッパが高らかに鳴った。
人々がざわついて、次々と椅子から立ち上がる。ルトヴィアス王子が到着したのだ。
アデラインは青ざめた。何て間が悪いのだろう。
アデラインは慌てて花帽を探した。落ちたと目算した場所の近くの
馬車を護衛していたらしい皇国の騎士達は、既に馬を下りて整列している。
本来なら馬車から降りる王子を、
(どうしよう……お父様にお
まさか帰国した王子を出迎え
(ただでさえ疎まれているかもしれないのに、その上出迎えさえしない無礼な女と思われたら……)
花帽ではなく、アデライン自身が空の
「
ルードサクシードの騎士団長のかけ声と同時に、ルードサクシードの騎士のみならず、皇国の騎士達も
それを合図にしたように、
アデラインも観念して、その場で
ガチャリ、と
靴音は迷うことなく歩を進め、国境を、
父のファニアスの声が聞こえた。場が静かなせいか、だいぶ離れているのにおかえりなさいませ、と言っているのがわかる。そして……。
「留守中苦労をかけました」
落ち着いた、低い、成人男性の声。
アデラインは
アデラインが知るルトヴィアス王子の声は、高い、少女のような声だった。
「出迎え、礼を言います。どうぞ立ってください」
許され、人々は立ち上がる。首を上げ、帰国した未来の主君を
王子の母親は、ルードサクシードの宝石と
そして、十年の時を経て、王子は故国に帰ってきた。あまりにも美しい青年となって。
母から
強い風に
アデラインは、体の前で両手を組み合わせ、痛いほど
呼吸が止まりそうな感覚には覚えがある。
ルトヴィアス王子は、皇国の責任者と言葉を
しかし、いっこうに馬車が動き出す気配がない。何か不備でもあったのだろうかと、おそるおそる、アデラインは
ファニアスとの会話が終わると、ルトヴィアス王子は今度は人々の顔を
誰かを探している様子だ。いったい誰を探しているのだろう。
ルトヴィアス王子の目が、順々に出迎えの人々を確認する。そして
(……え?)
アデラインは息をのんだ。
(まさか私を探しているなんて……それとも私の後ろに誰かいるの?)
(本当に私を探していたの?)
十年前に一度会っただけのアデラインの顔を、ルトヴィアス王子が覚えているとは思えなかった。けれどルトヴィアス王子は歩を進めている───アデラインに向かって。
王子が誰を探し、そして見つけたのか興味をもった人々が、王子に道を空けながら、その先にアデラインを見つけて意外そうな顔をする。けれど一番
王子が自分のもとへ歩いてくる。誰かと
人々の注目が集まる。
逃げ出したいのに、足は震えていうことをきかない。
親が決めた、政略的な婚約者だ。
そうだとしても、アデラインは
「アデライン……ですよね? 久しぶりですね」
確かめるように、ルトヴィアス王子はアデラインの名を呼んだ。そして黄金比に整った美しい顔を、
初めて会った日も、十
「……アデライン?」
ルトヴィアス王子は
「泣いているんですか?」
アデラインの瞳から、涙が後から後から
名前を呼ばれた。ただそれだけのことが、どうしようもなく
どんな顔で出迎えればいいのかと、
立場や、
ルードサクシード宮廷の主だった貴族の面々が
「───私の
自分に向けられたものにしては、やや不自然な言い回しであるその言葉に、アデラインは自分が置かれた
留学から帰った王子を
再会の喜びも、
「あ……あの……」
状況をどう
人目も
(だ、だって……)
混乱するアデラインは
(まさか殿下がこんなに
だから思わず泣いてしまったが、泣いている
「もっ……申し訳ございません。わ、私、きゃっ」
ぶわっと、体が
どこからともなく、若い婦人の黄色い声が交差した。
「……え」
視線の高さがいつもと違うのは
「マルセリオ、アデラインは私の馬車に乗せますが、かまいませんね?」
アデラインは今度こそ、状況が
ルトヴィアス王子の背後に
「し、しかし殿下のお手を
「心配は無用です。アデラインは
アデラインはようやく自らの置かれた状況を理解した。
「で、殿下っ!」
思わず
「殿下! わ、私歩けます! 歩きます!」
けれどその体はルトヴィアス王子の
「殿下っ! 私……!」
「じっとして、つかまっていなさい」
耳元で
王子はアデラインを下ろすつもりはないようだった。
まっすぐ前を
(私、きっと
自らの顔を、アデラインは持っていた小さな
(ああ! 口から心臓が飛び出しそう!)
「では王宮で」
ルトヴィアス王子は出迎えた人々に
衆人の
ガタガタ
(わ、私……あんなふうに泣くなんて)
公衆の面前で泣くなど、公人としてはあり得ない。アデラインはやがて
王子は無言で、どう考えても
(
混乱状態のアデラインの脳みそは、もはや収拾がつかなくなっていた。
泣いてしまったことから謝ろうか。それとも貴重な労力を使わせたことからの方がいいだろうか。
「アデライン」
そもそも自分などが婚約者でよかったのだろうか。けれどそれはアデラインが生まれる前に前王と
「アデライン?」
むしろ生まれてきたことを謝罪すべきなのかもしれない。生まれてきて申し訳……。
「
暴走した思考が、ピタリと
今の声は、誰の声だろう。この馬車に乗っているのはアデラインとルトヴィアス王子の二人。アデラインでないなら、ルトヴィアス王子の声だということになるが、聞こえてきた声は穏やかで品行方正なルトヴィアス王子のものとはおおよそ思えないものだ。冷たく、
気のせいだったのだろうか。
アデラインはおそるおそる、目線を上げる。
正面に座すルトヴィアス王子は、長い足を組み、静かな表情で窓の外を
「あんな場所で泣く気がしれない。お前、王族になる自覚が足りないんじゃないのか?」
気のせいでは、ない。言葉の
アデラインは目を皿のように丸くした。
ルトヴィアス王子は
「あそこまですれば、
「
ニヤリと笑ったその顔は野性味が
(どういうこと?)
アデラインの頭の中は
優しくて、穏やかな、アデラインが
アデラインが気づかぬ間に、王子は誰かと
「……あの」
おずおずと、アデラインは
「何だ?」
ルトヴィアス王子は肘をついたまま、聞き返してきた。
アデラインは、ゆっくり言葉を
「長旅で……お
「熱? あるように見えるか?」
目の前の人物はいったい誰だ。アデラインは開いた口が
「何だ? その顔」
ぷっ、とルトヴィアス王子が
「ああ、そうか。さっきのな。さっきのアレ。アレは
「…ね、猫?」
「そう。猫」
クックッと、それは楽しそうに、ルトヴィアス王子は笑った。
その王子の
(え!?)
慌てて見返すも、猫はいない。
(
アデラインはいよいよ自分の頭が心配になってきた。目の前の王子の
けれど、何度
「……ずっと……猫をかぶって、いらっしゃったのですか?」
「残念だったな」
何が、と尋ねるより早く、王子の手が
息づかいがわかるほど近くに寄ったルトヴィアス王子の顔はやはり美しく、けれどその微笑みは
「で、んか……?」
「俺のちょっとばかり
「そんな……」
否定しかけて、アデラインは口をつぐんだ。
否定はできない。幼い日から十年。神話の中から出てきたようなそれは美しい王子に
「だが現実はこれだ。ざまあみろ」
ルトヴィアス王子の唇が
その
ルトヴィアス王子は
狭い馬車の中、アデラインは背中を軽く打ちつける。
骨が
痛かったからではない。アデラインの中で、何かが粉々に割れるような、そんな感覚がしたのだ。そして全身から力が
理想を絵にしたような
「お前を見ていると
ルトヴィアス王子はそれを見届けると、座席に座り直し、まるでアデラインなど忘れてしまったかのように、また窓の外を眺め始めた。
その横顔は冬の湖のように静かで、
悪い夢でも見たのだと、アデラインは
(これも
いや、失恋なら三年前に
涙さえも出ない。
王室専用の
王子殿下の飼い猫はすこぶる毛並みが良いらしい 七期/ビーズログ文庫 @bslog
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