2013年【行人】「井口さんは秋穂のことが好きなんですよね?」

「わたしは大人ですから。責任や立場というものがあります。

 世界中の人間が矢山様のような、自分のことしか考えていない生き方をされては壊滅だと思いますが?」


「今、世界中の話なんてしていないですよ」


 と笑うと、井口が僕を明確に睨んだ。

「責任とか立場ってものをかざしてくるなら、井口さんは喋りすぎです。

 そして、知り過ぎです。

 実際、僕は秋穂との確かな関係を築けていなかったし、それは僕が自分のことしか考えていない結果でした。

 どうして、そんなにも的確なアドバイスを僕にしてくださったんですか?」


「立場上、ナツキ様や秋穂様の周辺について調べた時の、わたしの感想ですよ」


「立場? にしては感情に寄った意見だったように思います」


「感想を言われても困りますね」


「まったくです」


 井口の視線が更に険しくなった。

「先ほどから、矢山様のおっしゃりたい意味が理解できないのですが? もうよろしいですか。これでも暇ではないんです」


「待って下さい。不快になったのでしたら謝ります。もう少しだけ、僕の話に付き合っていただけませんか? 井口さんとしても悪い話ではありませんから」


 僅かな沈黙の後、

「なんでしょうか?」と井口は言った。


「川島疾風の失踪の行方」


 一瞬で空気の結び目が溶けた。

 そして、井口は僕に表情を見せないように俯いた。

 彼が何かを押し殺しているのがわかった。


 僕は少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。

 井口は首元のネクタイの結び目に触れて顔を上げ、

「懐かしい名前ですね」

 と言った。


「井口さんは情熱乃風の元メンバーだったんですよね?」


「ええ、そうですよ」


「そして、ここ数日。井口さんはMR2の赤グラサンこと川島疾風のことを探していましたね」


「勝手な決めつけをされては困りますね」


 と言ってから、微かな逡巡の後に続けた。

 

「ですが知っていた人が失踪していて、その行方を教えて頂ける、というのは有難いことです。矢山様のその話の信憑性はどれほどでしょうか?」


「当事者ではありませんから、百パーセントとは言い切れません。ただ、それなりに確かな筋から聞いた話です」


「その確かな筋とは?」


「星野里菜という、やくざです」


「やくざ……」

 井口の中で何かが繋がっていくのが分かる。

 多分、彼もやくざの息子タミヤが失踪していることは掴んでいるはずだ。

 ただ川島疾風とタミヤを繋ぐものがなかった。

 中谷優子を無視して、彼らを繋ぐことは難しい。


「なるほど。確かにわたしは情熱乃風の元メンバーです。

 川島疾風さんにも随分、お世話になりました。そんな彼の行方が分からなくなっていたことは悲しい事実です。

 しかし、どうしてわたしが彼の行方を探していたことになるのでしょうか?

 先ほども言いましたが、わたしはそれほど暇ではありませんよ?」


「秋穂の為だったのでしょう?」

 僕はコーヒーを飲んでから続けた。

「優子さんのことを警察に伝えに行くって秋穂が言った時、お父さんの会社の人に付き添ってもらったって言ったんです。それは井口さんでなければ話が通らないんです」


 あの時の秋穂との会話には一つの矛盾があった。

 秋穂は元から知っていると言って「MR2の赤グラサン」の説明をしてくれた。

 その後に、「MR2の赤グラサン」が川島疾風だとは初めて知った、と続けた。


 秋穂に連れ添って警察に行った人間は川島疾風が「MR2の赤グラサン」だと知っていた。

 それは情熱乃風の元メンバーである井口しかいない。


「社会的な立場とか責任とは別のベクトルで井口さんは秋穂に連れ添い、情報を与えていた。少なくとも僕側から見れば、ですが」


「苦しい点が見受けられない訳ではありませんし、やや無理矢理繋ぎ合わせたようにも感じますが及第点としましょう」


 相変わらずの上から目線には腹が立つ。


「確かにわたしは川島疾風の行方を探していました」


「そして、その理由は秋穂の為だった」


 僕の言葉に井口は笑みを深めることで応えた。


「井口さんは秋穂のことが好きなんですよね?」


「もちろん、勤めている会社の社長の娘さんです。好意は持っていますよ。しかし今、矢山様がおっしゃった好きとは違った意味合いですよね?」


「はい」


「はっきりと頷きますね」

 と言って、スーツのポケットからイルカのストラップがついた鍵を取り出した。秋穂の鍵だ。

「まぁこれを君に見せた時、わたしも流石に露骨すぎたなと反省しました」


「でしたね」


 僕は秋穂からもらっていたスペアの鍵をテーブルに置いた。

 井口の秋穂への好意がどれほどのものか僕には測り知ることはできない。

 ただ、僕から見て、井口は秋穂との関係に対し第三者、当事者として参加できずにいる。

 少なくとも、僕と生活をはじめてからは。


 そんな井口だから僕らの関係を観察し、的確に終りを告げることができた。

 同時に井口は秋穂にも明確な僕との関係の終わりを告げたのだと思う。

 あずきが聞いた秋穂の

「一緒に居たら傷つけちゃう」

 は井口のそういう冷静な意見を秋穂が飲み込んだからこそ、こぼれた言葉なのだ。


 事実、僕と秋穂の関係は終わっていた。

 少なくとも秋穂が『そうせずにはいられない』感情と行動に見舞われ、僕に声をかけずに出て行った時に、関係は終わった。


 そういう前提の上でも井口の言葉はあまりに的確過ぎた。

 その理由は井口の個人的感情以外には、ちょっと考え付かなかった。

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