2013年【行人】僕にとってこの時間がなければ前には進めない。
ペットボトルのお茶を飲み干してから僕は秋穂と一年と数ヶ月過ごした部屋にあがり、
とくに何をするでもなくソファーに寝そべって過ごした。
ここで秋穂と暮らすことはもうない。
また、この部屋に足を踏み入れたり、天井を見上げたりもない。
淋しいと思う。
その感情は学校を卒業する時のような必然的な淋しさだった。
初めてこの部屋に足を踏み入れた瞬間から僕は、どのような形であるかは予想できないまでも、今日の終わりを意識してきた。
終わることへの解放感さえ僕の中にはある。
けれど、その前にすべきことがあった。
インターホンが鳴った。
体を起こす。
十五時を少し過ぎてきた。
キッチンに行って鍋に水道水を入れて火にかけた。
玄関のドアが開く音がして、靴の脱ぐ音、廊下を歩く音。
何度も聞いた秋穂のものとはまったく違った、どこかよそよそしい他人の音。
「矢山様。靴があるから、いらっしゃると思いましたよ。片づけの方はいかがですか?」
「お久しぶりです、井口さん」
「ええ」
言って、スーツ姿の井口は部屋を見てまわった。
「綺麗に片づけて下さっているんですね。
ん? 秋穂様の私物はどうされました?」
「隣に住んでいる田中さんが預かってくれています。それについては、手紙がそちらに行くと思います」
井口は僕の方を見た。
それから、ふっと笑った。
「そうですか。いえ、ありがとうございます。では後日、こちらの者が隣の田中様の方に荷物を受け取りに向かいますね」
あずきは断固として本人以外には渡さない姿勢でいるような気がしたが、僕が何か言うことでもない。
「よろしくお願いします」
お湯が沸いたので、コーヒーを二つ淹れた。
井口は部屋の至るところを確認していた。
僕はテーブルにコーヒーを置き、ソファーに座った。
差し向かいのソファーを手で示して、
「よろしかったらコーヒーを飲みませんか? 以前、淹れた時よりも美味しいと思いますよ」
と言った。
井口はしばらく、じっと僕を見ていた。
何かを迷っているような気配もあったが、僕は気づかないフリをして自分の分のコーヒーを飲んだ。
うん、以前よりずっと美味しい。
小さなため息をもらし、井口は
「頂きます」
と僕の差し向かいに座った。
やはりコーヒーには口をつけなかった。
まっすぐ井口と対峙すると、彼が随分疲れていることが分かった。
ナツキさんの事件の処理に追われているのだろう。
そんな中で僕とこうしてコーヒーを飲むなど、井口からすれば時間の無駄以外の何ものでもないだろう。
しかし、僕にとってはこの時間がなければ前には進めない。
「井口さんに前に会った時の話、よく考えたんです。的確なことを言っていただけたな、と」
「そうですか。今から考えれば偉そうなことを言ってしまったと恥じるばかりです」
「そんなことないですよ。一つ、なるほどと思ったことなんですが、最後に第三者としての意見を言って下さったじゃないですか?」
「ええ、それが?」
「井口さんは、つまりずっと第三者、当事者になれず僕と秋穂の関係を見つめ続けていたんだろうな、と。
多分、それはこの先も生涯を通して、変わらないことなんでしょうね」
井口は何か喉につまったように眉をひそめた後に、大人な柔らかな笑みを浮かべた。
「どういうことか、よく分かりませんが、矢山様は何か大きな勘違いをされているようですね」
「そうですか?」
「わたしは別に当事者になろうと思ったことはありませんよ。それに生涯とおっしゃいましたが、秋穂様と矢山様の関係は終わっています。
完全に、もう修復不可能なほどに、です」
「それを決めるのは井口さんではありませんよ」
「まだ、ご自分のことしか考えていらっしゃらないようですね」
「そうかも知れないですね。でも、井口さんのように、他人のことばかりを考えて自分のしたいことをしない人間よりはマシだと思いますよ」
僕の言葉に、井口の口もとが僅かに震えた。
無意識に出そうになった舌打ちを我慢したのかも知れない。
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