2013年【行人】「あたしの理想であり続けて」

 インターホンの音、

 そして、携帯のバイブ音の二つが重なり僕は目覚めた。

 うんざりした気持ちで体を起こす。

 睡魔はしつこく僕の中に残っていた。


 携帯のバイブ音はすぐに止んだが、インターホンの音は続いていた。

 とくに何も考えず玄関に向った。

 扉を開けると、あずきが立っていた。

 制服姿だった。


「やぁ、奴隷一号行人くん」


「やぁ、スーパースターあずきちゃん」


 あずきは小さな紙袋を差し出した。


「これ母さんが作った朝食なんだ。一人だったら一緒に食べない? 女の子を連れ込んでいるのなら、その子と一緒にどーぞ!」


「連れ込める女の子とかいないから、あがりなよ。あ、でもこれから学校?」


 どうにもまだ時間の感覚が薄い。

 今日が休日か平日かさえ、僕の頭は理解していなかった。

 あずきはにっと笑った。


「じゃあ、お邪魔しまーす。学校はサボりまーす」


「ん、何故に?」


「奴隷一号くんが心配だから」


 心配。

 あずきに僕は秋穂が去ったことを伝えていない。

 にも関わらず、あずきは殆ど全てを承知しているような振る舞いをしている気がする。


 そんな僕の視線に気付いたのか、あずきは呆れたようにため息をついた。


「へんな深読みとか良いから、中に入れてよ。

 あたしが知っていることは、ちゃんと全部説明するし、誤魔化さないから。まずは朝ごはんを食べよう。母さんが作ったサンドイッチなんだけど、すごく美味しいんだよ」


「うん」


 僕の横で靴を脱いでリビングに向かうあずきの背を見送ってから、僕は部屋に戻って服を着替えた。

 携帯を開くと陽子からメールが届いていて、

『昼ごろに行くから』

 とあった。


 了解、とだけ返信しておく。


 洗面台で歯を磨き、寝癖を直し、うっすら生えた髭を剃った。 

 そして、二度顔を洗った。

 気持ちはさっぱりとし、睡魔はひとまず意識の奥の方へと追いやれた。


 リビングに顔を出すと、あずきは既にテーブルにサンドイッチの詰まったタッパーを広げ、キッチンでお湯を沸かしていた。


「コーヒー、勝手に淹れてるね」


「うん、ありがと」


 席に着いて、テレビでも点けようかと考えてやめた。

 あずきがコーヒーを淹れたマグカップを二つ持って、一つを僕の前に置いてくれた。


「じゃあ、とりあえず食べよう。いただきます」


「いただきます」


 言って、一つを手に取った。

 きゅうりのサンドイッチだった。


「あ、全部美味しいんだけど、私的に一番おすすめはそのきゅうりのサンドイッチだから」


「きゅうりなの?」


「そう、地味でしょ? そのくせ、驚くほど美味しいから」


「ふむ」


 一口食べて、納得した。ジューシーと言うべきか、身に詰まった歯ごたえがあった。

 そして、後から微かにからしマヨネーズが舌の上で浮かんで消えた。


「これ、幾らでも食べれそーだね。めちゃくちゃ美味しい」


 でしょ?

 とあずきが得意げな顔をした。「それ、きゅうり一本丸ごと入っているんだから」


「ん、どーいうこと?」


「きゅうりをすごぉく絞ってあるんだよ」


「へぇ、なるほどなぁ」


 ハム、たまごと王道のサンドイッチもお店で食べるのと同じくらいに美味しかった。

 あっという間に食べ切って、コーヒーも全部飲んだ。あずきが新しいコーヒー淹れるね、と席を立った。


「僕がするよ」

と言ったけれど、


「いいから、いいから」

と制されてしまって、結局は席であずきがキッチンに立っているのを見た。


「なんだろ、あずきと結婚する男は幸せなんだろーな」


「なにそれ?」


「そのまんまの意味」


「ふーん。でも、あたし料理とかあんまり得意じゃないよ」


「そんなの一緒に得意になっていけば良いだけで、問題ないだろ」


「行人くんの、その一緒にやろう精神、あたし結構好きだよ」


「そっちの方が楽しいからね」


 と言いつつ、僕は秋穂とキッチンに立ったことがほとんどない。

 また一緒に暮せるようになったら二人で料理を作るのも悪くないな、

 とぬるいことを思った。


「はい」

 と、あずきが僕の前に二杯目のコーヒーを置いてくれた。


「ありがと」と僕は言った。



 二人ともしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。

 陽子が淹れてくれたコーヒーも美味しかったが、あずきのもまた変わった味わいで美味しい。

 あえて違いを探すなら陽子は少し濃い目に淹れるのに対し、あずきは少し薄く淹れていた。


「昨日の朝さ、秋穂さんに会ったんだ」

 あずきは部屋の隅の方に視線を向けたまま話はじめた。


「ん?」

 ぼんやりしていて、頭が追い付いていなかった。


「あたしって時々、早朝の音楽室でギターの練習させてもらっているのね。

 それで昨日は、五時くらいに出たのかな、そうしたら男性と一緒にいる秋穂さんが見えたんだ。男性はお父さんにしては若いなぁと思いながら声をかけたのね。

 マンションの前だったかな」


「うん」

 と頷きつつ、あずきの見た男性は井口だろうと予想を立てる。


「なんか、あんまり良い雰囲気ではなかったんだけど、秋穂さんはいつも通りに答えてくれたの。男性に一言告げると、男性はすっと離れて行ってね。何処か行くんですか? って尋ねたんだ。そうしたら、少し困った風に秋穂さんが笑って」


「うん」と僕はやっぱり頷く。


「ちょっと遠くへ、って秋穂さんが言うから、そうなんですね、なんて言いながら、行人くんとですか? って尋ねたの。だって、そう思うでしょ? でも、ううんって言われちゃった」


「うん」


「一緒に居たら、傷つけちゃうからって。ごめんね、ありがとう、って言って、ばいばいだって。なんか、もう会わない人にするような感じで、ちょっと腹が立ったの」


「うん」


 そこで、あずきが僕を真っ直ぐ見据えた。


「私の夢は、行人くんと秋穂さんみたいな、その人さえ居ればそれでいいやって思える人を作ることですって。言っちゃったんだ」


 うん、とさえ頷けなくなった。


「秋穂さんがさ、私たちの関係はそんなに良いものじゃないよって、ちょっと切なそうに言って、そのまま行っちゃったんだ」


 あずきが僕を見た。


「何があったのか知らないし、あたしは前にも言ったけど行人くんの夢とか意見とか別に聞きたくない。でも、一つだけ言わせてほしいの。私が憧れた関係は行人くんと秋穂さんだから。それが、秋穂さんが言う良いものじゃなかったとしても、だから憧れないって言う選択があたしにはないの。そんなに器用な人間じゃないもん、あたし。だから、行人くん」


「はい」


「あたしの理想であり続けて」


 僕はこれほど真っ直ぐ残酷なことを言う女の子をあずき以外に知らないし、知りたくない。

 本気でそう思った。


 あずきの目を見て浮かんだのは中谷勇次だった。

 夢があるか、と尋ねた僕に対し勇次は

「当然」と答えた。


 ヒーローなら、あずきの言葉にもそう答えるのだろうなと思ったが、僕はそうじゃない。

 普通の人間だ。


「努力します」

 だから、そう言うのが精々だった。


「うん。応援している」


 あずきは笑顔で応えてくれた。

 残酷な素直さがそこには潜んで見えた。

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