2013年【行人】それでも、僕は「ただの秋穂」の横に立つことを選ぶ。

 あの口づけが僕にとっての契約だった。


 旅行の後、秋穂は学校に登校するようになった。

 そして、僕は彼女の用心棒になった。


 次に秋穂が不登校になったのは十五歳の時だ。

 その時、秋穂は確かなお姫様としての自覚を持っていた。


 ――行人、お姫様はね、待つの。それが仕事なんだよ?


 始めてしまったゲームをしながら秋穂は僕を待つ、

 と言った。

 ゲームを始める動機は朝子だった。同時に秋穂は僕を待ってもいた。


 あの時、秋穂は僕の何を待っていたのか。

 多分、僕が彼女を選ぶかどうか、を待っていたのだ。

 僕は用心棒として秋穂を明確に選んだ。


 秋穂を守りたいと思い、

 その役割を引き受けてしまった以上、僕は秋穂を迎えに行く役割にない。


 それは王子様、ヒーローの仕事だ。

 この世の中にそんな存在がいるだろうか?

 と考えて、いると思った。


 中谷勇次。

 正しい正義の血を引く少年。


 僕が中谷勇次のような人間になれば、秋穂を迎えに行けるのだろうか?

 少なくとも勇次であれば迷うことはない。

 井口を殴り、西野家に乗り込んで秋穂の居場所を聞く。

 そういう無茶苦茶なことが勇次には出来るような気がした。


 しかし、そういう無茶苦茶な行動によって状況が良い方向に進むのかは疑問だし、それが周囲から見て正義の所業として映るのかにも首をかしげる。

 結論、僕は中谷勇次のようにはなれない。


 西野秋穂もまた、中谷勇次のような絶対的な存在ではない。

 秋穂は普通の女の子で、お姫様の役割を演じていたに過ぎない。

 勇次のように環境の全てが正義に染まるような教育を秋穂は受けていない。


 十五歳の時の秋穂は確かにお姫様としての自覚を持っていた。

 けれど、それは現在まで脈々と続いていたかと考えると、そうではない。

 少なくともドリンクバーの話をした時、秋穂の思想は待つことから、自らの足を動かして選ぶことにシフトしていた。


 ――普通ってなんだろう、って真剣に考えたよ。答えは出なかったけど、私が欲しいものは分かったんだ。


 ――私はね。もう席で待つことが当然だって思う人生は送りたくないんだ。自分の手で欲しいものを掴みにいくんだ。ドリンクバーを頼むとね、いつもそれを思い出すんだ。


 井口の言う通りだと思う。

 一年という時間がありながら、僕は秋穂と一度だってちゃんとした関係を築こうとしなかった。

 そして、それは僕が「お姫様」としての秋穂を見ていたい、

 彼女の用心棒でいたい、

 という理想を彼女に押し付けていたことを意味する。


 秋穂が変わろうと必死になっている横で僕は自分のことしか考えていなかった。


 ――お前は弱い。自分の欲しいものさえ言えないヤツを俺は生きているとは見なさない。


 兄貴の言葉が浮かぶ。

 この期に及んで僕はまだ生きているとは言えなかった。

 自分の欲しいもの。


 それは秋穂だ。

 けれど、その秋穂はお姫様としてではない。

 ただの秋穂の横に僕は居たい。


 その為に僕は用心棒としての自分を捨てる。

 残るのはただ生きているだけの、生身の僕だ。


 弱く、臆病な僕。

 そうすることでしか見て、感じられないものがある。


 僕は秋穂を慰めて、守る役割から下りる。

 それは他の男が秋穂を慰めて、守るかも知れないということだ。僕はそれを許容する。


 秋穂が僕のせいで傷つき、涙に暮れるとしても、それを受け入れる。

 嫌われ、憎まれ、さげずまれ、軽蔑されても僕は良い。

 いつか秋穂を決定的に傷つけて、彼女の中にあるものを損なわせてしまうかも知れない。


 そうした責任を負うことで僕はようやくスタート地点に立つ。

 つまり、それは僕が兄貴に対して持つ嫌悪感を秋穂から向けられる可能性を飲み込むことだ。


 生身になっても苦しいだけだ。

 がんじがらめに固めた自意識で、自己中心的な視線の世界にいる方が傷つかずに済む。

 甘い過去の夢だけを抱えて生きる方が絶対に良い。


 それでも、僕は「ただの秋穂」の横に立つことを選ぶ。


 彼女の隣に立ち、苦しみ、傷付き、もしかすると後悔するかも知れない未来が待っているとしても、僕はそれを望む。

 ゼロ以前にマイナスのスタートだ。

 深く歪んだ場所から僕は秋穂の隣に立つ為の道を進む。


 何も考えず彼女の隣に用心棒として立ちづけたツケは今ここで全て全て清算する――。

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