2013年【行人】純粋な他人の人生。

 田中さんはティシャツにジーパンというラフな格好で店を訪れた。

 丁度、僕はビールを飲み終え、次のジン・トニックを飲もうとした時だった。


「やぁ、行人くん」


「すみません、いきなり呼び出しちゃって」


「いや、全然構わないよ」


 言って田中さんは僕の隣に座った。

 圭太が「なに飲みます?」と訊ねた。

「ビールで」と田中さんは言った。


「ん、煙草吸っていたっけ? 行人くん」


「ちょっと、そーいう気分だったんです」


「へぇ、悪くないね」


「万引きの時も思いましたけど、田中さん。僕を不良にしたがりますよね?」


 圭太が田中さんの前のコースターにグラスビールを置いた。


「いや、そんなつもりはないんだが。ナンパの話を聞いていると、どうしても、そっちの方向で見てしまうんだよ」


 ナンパが不良の領域なのだろうか?


 と疑問に思いつつ、僕はジン・トニックのグラスに口をつけた。

 乾杯はしなかった。田中さんもとくに気にせず、ビールを飲んだ。

 圭太がナッツの乗った小さな皿を僕の前と田中さんの前に置いた。


「ありがと」と僕が良い、「どうも」と田中さんが軽く頭を下げた。

 圭太はいえいえと笑った。


「それで、行人くん。話ってのは、何だい?」


 僕は田中さんに話をしたいと思っていたことを、順序立てて説明しようと考えを巡らせて、止めた。

 複雑に入り組んでいて、言葉をまとめようとすればするほどに溶けていく感じだった。


 僕は十分に落ち着いているつもりだけれど、実際のところはまだ不安定な部分を残しているのかも知れない。


「上手く言葉にできないんですけど、田中さんは奥さんとまた一緒に暮らしたいと思わないんですか?」


「思うよ」


「じゃあ、一緒に暮らすんですか?」


「事はそれほど、単純じゃないんだよ」


 それだ、と思った。


 秋穂と中谷勇次を重ねた時、僕自身が考えつかないような視点が生まれた。

 少なくとも中谷家の隣人の話を聞かなければ僕は秋穂にとっての悪になる、

 という考えには辿り着けなかった。

 その考えが、この先で何の役に立つのか、立たないのかは分からない。


 ただ純粋に僕は今、他人の話を求めてきた。

 役に立つ立たないは分からない、純粋な他人の人生。

 僕はそれを聞きたい。


 田中さんは奥さんと別居中だけれど、一緒に暮そうと思えば、そうできる立場にいる。けれど、単純ではない理由で一緒に暮すことに躊躇している。

 それはなんだろう?


「話を聞かせてください」


 田中さんはビールを飲んで、僕の目を見つめた後に笑った。「少し、長い話をしても良いかい?」


「お願いします」


 そう言って田中さんは語り出した。

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