2013年【行人】例えるなら正義の味方に、僕はなれるのだろうか?
「子供の前で浮かべる笑みが本物であればあるほど、私は薄ら寒いものを感じたわ。
だって、人間ですもの。自分が意図しない動揺や戸惑い、というのは誰にだってあるはずよ。なのに、正宗さんにはそんなものはないようにふるまった。
「大人であれば、親であれば、人前で感情を晒すようなことをする訳がない。
ゆりさんの死がああいう形である以上、弱味は見せられない。理解できない訳じゃなかったの。でも、恐かった。
おかしいわね、正しいことを貫く姿を恐いだなんて」
それは優子が高校を卒業する年のことだった。
寝たばこで起きた火事の現場に正宗は一人乗り込み、火事のもとを作った本人を救い出し、逃げ遅れて亡くなった。
葬儀には女性も参加した。
正宗の同僚は重々しげな表情でいたけれど、後輩と思われる若い男性数名は泣いていた。そんな中、優子と勇次は決して感情を人前に出していなかった。
正しい、立派な息子と娘の姿だった。
正宗の死によって、優子は大学進学を諦めた。辿った道は分からない。ただ優子は勇次の前で父であり、母であり、姉であろうとしていた。
常に正しく、決して間違わない存在。
一目見て分かった。
優子はゆりと正宗の意思を引き継ごうとしている、と。
故意な交通事故によって母ゆりを亡くしても、無茶な現場に一人突き進む父正宗の死を知っても、中谷優子は正義を疑っていない。
それが分かった時、隣に住む住民として薄ら寒いものを感じた。
「これが私の知っている中谷の人間の全てよ。私はこれ以上を知ろうとしてこなかったわ。
でも、ここ数週間、隣の家から物音が聞こえたことはない。多分もう誰もあの家に住んでいないし、誰も戻ってこない。私はこういう日をずっと待ち続けていたわ」
女性はさっぱりとした笑みを浮かべた。
「私は今、ほっとしているの。もう、正義に恐れなくて良いから」
正義の恐さ、と僕は内心で呟いた。
自分が傷ついても誰かを助けようとする。
正義はその瞬間、誰か以外に迷惑がかかることに対して躊躇がない。何故なら、悪を見逃すことが決定的にできないから。その結果、自分が死に、誰かが傷つくとしても目の前の悪を優先してしまう。
無視できないという意味で、正義は悪にとても弱い。
そういう一家が隣に住んでいるのは恐ろしいことだ。
家族の誰かが犯罪を犯した場合、即座に成敗され、まったくの他人の犯罪に巻き込まれた時、悪を見逃さないという主張によって被害が及ぶかも知れない。
交渉の余地のない絶対的な正義。
女性は笑みを消し、目を逸らして口を開いた。
「ゆりさんも、正宗さんも良い人で立派な人だった。
それは間違いのないことだわ。けれど、弱い人の気持ちは分からない人たちだった。私はね、家族を守る為なら正義なんて平気で捨てるわ」
僕はどうだろう?
いや、この話を聞いた僕は何を考えるべきなのだろう?
僕が弱い人間で、秋穂が立派な人間なのだろうか?
そうだとするなら、僕はどうすれば良い?
中谷勇次が抱えた『そうせずにはいられない』ものと秋穂が抱えた『そうせずにはいられない』ものは同質のものでは決してないだろう。
仮に秋穂が中谷の人間のような絶対的な思想を持って動いていた時、僕は彼女の味方でいられるだろうか?
例えるなら正義の味方に、僕はなれるのだろうか?
無理だと思った。
秋穂が絶対的な思想、それが正義だったとして、の為に我が身を捧げて危険に飛び込むのであれば、僕は止める。正義を止める為の悪になる。
秋穂の悪になってでも、僕は彼女に生きていて欲しい。
「私の息子ね」
と女性がぽつりと言った。「躁鬱病で、精神科病棟への入退院を繰り返しているの。原因は遺伝的なものだろうって旦那の遠い親戚の医者に言われたわ。そうして、病によって病院と家の行き来をしている息子を見て、私は時々ほっとするの。
何でかしらね?」
女性はその場で涙を流したが、僕は何も言えずただ立ち尽くしていた。
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