2013年【行人】「仕事人間」

 中谷正宗は消防士で妻のゆりは警察官だった。


 ゆりは最初の子供の優子を生んでからも、仕事を辞めず頼れる婦警として活躍していた。隣人である女性も町で何度かゆりを見かけることがあった。


 全国区で報道され、逃亡している犯罪者が岩田屋町付近に潜伏していると知ったゆりは、犯人を追い詰めた。

 その手際の良さに上司や同僚、後輩から絶対の信頼を得ていた。


 その頃に二人目の子供の勇次をゆりは身ごもった。それでも現場の最前線に立つことには躊躇していなかった。


 産休に入っても、電話で後輩への指示や相談には常に乗っていた。

「仕事人間」

 近所で、そう揶揄されるのを女性は何度も聞いた。


 実際、ゆりが優子を連れて近所の公園に訪れたのは産休に入ってからの時期だけだった。警官であるゆりは生真面目ながらも、コミュニケーションの取り方が上手く、すぐに複数のお母さんたちと仲良くなった。


 ある日、出産予定日を控えた日、だった。ゆりはひき逃げに遭った。


「第一発見者は私だったの。息子と散歩をしている最中だった。すぐに救急車を呼んだ。そこで違和感に気付いたの」


 優子は安全な場所に立って道路の先を見ていた。

 一瞬のことだったけれど優子は倒れた母親ではなく、ひき逃げ犯の車が去った先をじっと見つめていた。


 車の特徴、この道の先に何があるのかを、まるで記憶しておく為の一瞬。それから優子は泣きながら母に近寄った。


「これが血筋なのか、と私は思ったわ。あの子はお母さんよりも、目の前を通り過ぎる悪にまず目が行く。体が母親に近づこうとしても、それを押さえつけるほどの教育、常識が彼女の中には渦巻いて見えた」


 意識不明のゆりは現れた救急車に乗せられた。

「優子が一緒に行くと聞かなかったから、私と息子も一緒に乗車したわ。そうして病院へ向かっている間で、ゆりは意識を取り戻した。一番に口にしたのは、犯人の車の車種とナンバープレートだった」


 病院につくと、ゆりは集中治療室に運ばれて、子供を生むと同時に亡くなってしまった。その後の警察の調査で、ひき逃げ犯はゆりに逆恨みした男の計画的犯行だと分かった。

 警察に有力な情報をもたらしたのは誰でもない優子だった。

 

 ゆりが亡くなった後、正宗は男手ひとつで優子と勇次を育てた。真面目な正宗は近所でも良いお父さんと賛美されていたし、職場でも尊敬される消防士として後輩から慕われていた。

 正宗もまた、ゆり同様に現場の最前線で引くことなく職務を真っ当していた。


 男と女の違いか、正宗を「仕事人間」と呼ぶ人間は誰もいなかった。


「でも、私の目から見れば、正宗さんも仕事人間だった。

 自分語りだって言われちゃうんでしょうけど、私も息子が生まれてすぐの頃に夫を亡くしたの。病気だった。

 自暴自棄にもなったし、周りの力を借りたし、息子に淋しい思いをいっぱいさせたわ。

 そんな私から見て正宗さんの子育ては義務的で、まるでノルマをこなす仕事のようだった」


 ゆりが亡くなってから正宗が新しい服を着ているのを見たことがなかったし、近所の居酒屋に顔を見せたこともなく、新しい恋人を作ることもなかった。


 正宗は消防士としての職務と、子育てという仕事を両立した機械的な日々をこなしていた。

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