2013年【行人】「行人、私はあんたを今から殴る」
五本目の煙草を吸い終えてから、マンションへ向かった。
部屋の前に人影があるのが分かった。けれど、頭はしっかりと働いておらず、その人影が誰であるか上手く認識できなかった。
目が合いそうになって、視線を横に逃がした。
人影が動いた気がした。
一瞬の間の後、喉と背中に衝撃があった。僕は胸倉を掴まれ壁に押し付けられていた。
「行人、私はあんたを今から殴る」
目の前にいたのは陽子だった。
そして、本当に殴られた。
部屋にあがった陽子は僕をソファーに座らせると、テーブルに置いてあった二つのマグカップを回収し、キッチンでそれを洗い、新しいコーヒーを二つ淹れた。
「私がナツキさんの事件に気付いたのは今日の朝だったの。
すぐに秋穂に電話をいれたけど、繋がらなかった。それから、昼まで近所でアルバイトをしていたから、行人の電話も取れなかった」
陽子の言葉に僕は相槌一つ打てなかった。
「腑抜けてるな。まずは事実把握、テレビ点けるね」
陽子はテレビのリモコンを操作して、コーヒーに口をつけた。
僕はぼんやりテレビ画面の動きに視点を合わせた。しばらくすると、西野ナツキさんの殺人事件についての報道がはじまった。
《○×県××市○○町に住む女性が殺害された殺人事件で、○×県警××東署はリフォーム会社の男を逮捕しました。殺人容疑で逮捕されたのは、○島県△△市に住むリフォーム会社の社員、西野夏稀容疑者、23歳です。発表によると西野夏稀容疑者は昨年2012年12月×日午後4時半から8時半頃、××市○○町一丁目のアパートに住む職業不詳・藤田京子さん、当時30歳の首を刃物のようなもので切りつけて殺害した疑いが……》
「ネットで見た時も思ったんだけどさ、報道のナツキさんの名前、間違ってるよね? 確か。けものへんの旧字に希望の希じゃなかったっけ?」
「知らない」
僕の返答に陽子が不機嫌になるのが分かったが、僕はテレビ画面から目を離せなかった。モザイクのかかった住宅地。
岩田屋町ではない、この場所を僕は知っている気がした。
そんな錯覚があった。気のせいかも知れないのに無視できなかった。
ナツキさんのニュースは終わり、次の報道に移った。
僕はそこでようやく陽子が淹れてくれたコーヒーに口をつけた。さきほど僕が淹れたコーヒーの何倍も美味しかった。
――行人、私はあんたを今から殴る。
さきほど陽子に言われた言葉が浮かんだ。
以前、……そう十五歳の時にも僕は同じようなことを言われた。
誰だっけ?
――お前は弱い。自分の欲しいものさえ言えないヤツを俺は生きているとは見なさない。
そう言われて殴られた。
誰? 兄貴だ。
ここにまで来て、また兄貴か。くそっ。
僕は死んだ兄貴を、今はそれほど嫌いでもないと中谷勇次に対して言った。
けれど、撤回する。
死のうが何だろうが、嫌いな奴は嫌いだ。
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