2013年【行人】秋穂だとしたら、チャイムは鳴らさない。

 秋穂だとしたら、チャイムは鳴らさない。

 誰かがこの部屋に訪ねてきたのだ。それが誰か僕には分からない。

 ただ、それは不吉で、不愉快な存在であることは予想ができた。


 呼吸を整えてから玄関の扉を開けた。

 外には三十代くらいのスーツの男が立っていた。


「こんにちは。良かった、まだいらっしゃって」


 男は安心したような表情を浮かべた。


「どなたでしょうか?」


「井口と言います。矢山行人さんですね? お話がありまして、あがらせてもらってよろしいでしょうか?」


「その前に、用件だけでも尋ねてもいいですか?」


 井口はスーツの内ポケットから名刺ケースを取り出し、そこから一枚を抜いて僕に差し出した。

 名刺には秋穂の父の会社の名前が印刷されていた。


「西野正嗣様の代理のものです」


 それで殆ど全てを僕は了承してしまった。

 秋穂の父はこの部屋を引き払うつもりでいるのだ。


「お部屋に入れて頂いても構いませんか?」


 口調は丁寧だけれど、有無を言わせぬ迫力がそこにはあった。

 井口は玄関で靴を脱ぐと、ちゃんと靴を揃えた。

 僕はキッチンでコーヒーを二つ淹れた。

 その間、井口は室内を見てまわった。


「綺麗に使って下さっていたようですね」


「幸い掃除は好きなもので」


 僕はコーヒーをテーブルに置いてソファーに腰を下ろした。

 井口も正面のソファーに座った。


「ありがとうございます」


 言いながら、井口はコーヒーには口をつけず、スーツのポケットからイルカのキーホルダーのついた鍵を取り出した。

 秋穂の持っている、この部屋の鍵だった。


「もうお分かりだと思いますが、正嗣様はこの部屋を手放すことを決めました。

 つきましては、三日以内に荷物をまとめて出て行ってください。急な話ではありますので、次の住居が決まらないようでしたら、こちらで幾つかの部屋を確保しています。言ってください」


 コーヒーを僕は飲んだ。

 濃く入れ過ぎて、飲めたものじゃなかった。


「秋穂は、今どこにいるんですか?」


 声が震えないように注意したが、語尾は少し弱くなってしまった。


「秋穂様は元気ですよ。何も問題ありません。

 ただ、ナツキ様の起こした事件が鎮静化するまで、この町から離れていただくことになりました」


 そういうことじゃねぇよ、

 と叫びたい気持ちを抑え込んだまま、言葉を続ける。


「秋穂がどこに行ったか井口さんは知っていますか?」


「さぁわたしには聞かされていないことですね。

 しかし、安全は保障されていますよ。ナツキ様の事件によって、秋穂様は現在とても混乱されております。時間が必要です。お分かりですよね?」


 テーブルに置かれたイルカのキーホルダーのついた鍵。

 秋穂の鍵が井口の手にある。

 それが全てだと言わんばかりに、上滑りで曖昧な言葉を並べる井口が僕は憎くて仕方がなかった。

 それでも、追い縋らざるおれない。

 そんな自分が惨めだった。

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