2013年【行人】ブレーキを踏め。
美紀さんが立ち止まって指差したのは、見覚えのある通りにある一軒家だった。すぐに気づいた。中谷家のある通りだ。
そして、美紀さんが指差した家は中谷家の隣だった。
和田。
表札にはそうあった。美紀さんは躊躇わず、インターホンを鳴らした。
なんだ、この偶然?
と戸惑いつつ僕は口を開いた。
「美紀さん。僕はどういう立場で居れば良いんでしょうか?」
「んー、普段通りで良いよ」
「そうですか、もう一つ」
「ん?」
「この隣の中谷のお家のこと、何か知ってます?」
少し考える仕草を美紀さんがした後、
「知らないよ、なんで?」と言った。
いえ、と僕は言った。
しばらくすると五十代くらいの女性が出てきた。少し疲れている印象があった。
女性は美紀さんを見て、安心したような笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、美紀ちゃん」
「こんにちは、おばさん」
女性に促されて僕らは家にあがった。
玄関や廊下には長く使われているものがしっかりと馴染んで、張り付いているように僕は感じられた。
通された居間にも彼らの生活が地層のように長い時間をかけて積み重ねられた乱雑さだった。
美紀さんはリビングの真ん中に置かれた、布団が取られた炬燵テーブルの周辺に散らばった座布団を一つとって腰を下ろした。
その横に僕も腰を落ち着けた。
テーブルの上にはあらゆるものが置かれていた。
新聞、爪きり、文庫本、ライター、灰皿、携帯の充電器、単三の乾電池……。
女性と美紀さんの会話を聞いていると、どうやらこの家には美紀さんの同級生の男性が住んでいて、彼は躁鬱病で部屋に籠っている。
そして、美紀さんは時々こうして訪ねているようだった。
地元で就職するようには見えない美紀さんが、岩田屋町に残った理由の一端を垣間見えた気がした。
「せっかく、来てくれてありがとうね。
でも、今日はちょっと調子がよくないから、顔は会わせない方が良いわ」
「そうですか、分かりました。じゃあ、これだけ渡してください」
言って、持っていたケーキ屋の小さな紙袋を女性に渡した。
女性は
「ありがと」
と言って、使い込まれたマグカップでコーヒーを三つ出してくれた。
三十分ほど喋った後、美紀さんは立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ」
と言い、女性も頷いた。
家を出て、しばらく僕と美紀さんは黙って肩を並べて歩いた。
「幼馴染だったんだ」
あの家にいる男性のことだろう。
うん、と相槌を打った。
「幼稚園の頃に知り合って、よく一緒に遊んでた。
早くにお父さんが他界してたから、おばさんが殆ど一人で彼を育てていて、だから私はよくあの家に遊びに行ったんだ。初めてキスしたのも、あそこだった」
「うん」
「上手く行くと思ったんだ。彼と一緒に居れば、どんな大変なことだって乗り越えられるって。でも、ある時、彼は私の知らない壁の前で膝をついて、立ち上がれなくなった。
そんな彼を置いて、私は一人で壁を越えて行っている」
美紀さんが僅かに黙った後に続けた。
「高校生の時に一度、今みたいにお見舞いに行ったんだ。
その当時、彼は調子がまだ、ひどくなくて会話をしたんだ。そこで、
『ブレーキを踏め』
って言ったの。どういうことだろう? って思いながら、私は分かったって頷いた」
「うん」
「でも、私は彼に言われたことを実行できず、ひたすらアクセルを踏んでる。
止まることが恐いの。
彼みたいに、もう壁を超えることが出来なくなっちゃうんじゃないかって。進んでさえいれば、それで済んでいることが、止まってしまった途端に、それじゃあ済まなくなる。
そんなあやふやな不安が私の中にはあるの」
分かる? と言って美紀さんは立ち止まった。
頷くのは簡単だった。
だからこそ、
「僕もずっとそういう不安の中にいると思います。でも、確かな言葉にはなりません」
と言った。
「分かるよ。私も言葉に出来ない部分がいっぱいある。
だから、彼が言うブレーキを踏めない。分からないってことが恐いんだ。でも、いつか私は必ず何かにぶつかって、壁の前でうずくまる。
それは決まっているんだと思う」
「決まっているんですか?」
「うん、決まっているの。でも、そうなるまでは進むんだ」
言って、美紀さんが笑った。
「今日はありがと。毎回、一人で行っていると時々息が詰まるの。だから、今日は助かっちゃった」
いえ、と僕は言った。
その時、僕の頭に浮かんだのは秋穂のことだった。僕はいつか秋穂と一緒に暮せなくなるだろう。
それは殆ど決まっている。
ブレーキを踏め。
僕もまた秋穂との関係において、止まる方法を完全に見逃してしまっている。
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