2013年【行人】ま・て・て。待ってて?

 マンションを出て、秀の家へ向かう道の信号待ちの向こう側で見覚えのある顔に出くわした。

 最初は勘違いかな、と思って失礼だとは思いながらじっと見ると、向こうが薄く笑って応えてくれた。

 パンツスタイルのスーツを着こみ、姿勢よく立っている女性。


 宮本美紀。


 ただし僕の記憶の美紀さんよりも、ふっくらとしていた。

 にも拘わらず、彼女の立ち姿には以前と変わらない完璧さが窺えた。


 美紀さんが手をあげて、僕も同じようにした。

 目の前を何台かの車が通り過ぎたが、僕も美紀さんもお互いに目を離さなかった。

 ふっと美紀さんが笑って、口ぱくで言った。


 ま・て・て。


 待ってて?

 信号が青に変わっても、僕は歩き出さなかった。美紀さんが近づいてきた。

 よく見るとケーキ屋の小さな紙袋を下げていた。


「久しぶり、行人くん。私に、ようやく気づいたみたいね」


「ようやく?」


 美紀さんが僕の手を取った。


「結構、行人くんの前を通ったりしたんだよ? でも、まったく気づかないから悲しかったの。私が太ったから気づかないのかなぁって」


「それは……」


「そー考えたら、意地でもこっちから声なんてかけたくないじゃない?」


 悪戯が成功した子供のような明るい声で美紀さんが言った。


「僕の中で美紀さんって地元で就職するタイプの人じゃなかったので、ちょっと驚いちゃっただけです。あと太っても、美紀さんは素敵です」


 実際、兄貴と付き合っていた頃の美紀さんよりも、今の方が僕は接しやすく感じた。無理せず、以前から持つ正しい立ち振る舞いを保っている。

 美紀さんは自分に必要なものと、不必要なものをちゃんと選び取った、そんな印象を僕に与えた。


「美紀さん、突然で申し訳ないんですけど最近、兄貴と連絡とったりしました?」


「ん? いや、彼とは別れてからは全然。どーしたの?」


「いえ」

 予想通りの答えだった。


「とりあえず行人くん。今まで気づかなかった罰として、これからちょっと付き合ってよ?」


「友達のところに行く予定があるんです。なんで、一時間くらいで良かったら、ですけど」


「十分」


 僕らは肩を並べて歩き出した。駅とは反対方向、住宅街へ進む道だった。


「美紀さん、中学校の先生になったって聞きました。どうですか?」


「んー、大変だって聞いてたけど。思った以上かな」


「どうして先生になったですか?」


 美紀さんが僕の顔を覗き込むようにして笑った。

「別に、歩のことがあったからじゃないよ」


 宮本歩。

 僕の友達、ミヤ。中学三年にあがる春に不登校になった同級生。

 当時、ミヤに親身になってくれる先生が居れば彼の人生は変わっていたかも知れない。そう僕は思って理由を尋ねた訳ではなかった。

 多分、ミヤはどうしたって不登校になっていたから。


「ミヤ、元気ですか?」


「元気よ」


「良かった」

 言って僕は笑った。


「今は何をしているかとか、どこに住んでいるのかとか聞かないの?」


「昔、美紀さんに言われたんですよ。正しい人間関係とは相手の言葉を待つことだって」


「そうだったかしらん?」

 とぼけたように美紀さんが言った。


「そうですよ、そこで美紀さん。僕にっ――」


「あ、ここが目的地」

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