2013年【行人】あの頃と今で僕はどれほど変わったと言えるのだろうか?
帰り道、普段とは違うスーパーで夕食の買い物をした。
鶏肉とトマトが安かった。ついでにアサヒの黒ビール六缶パックをカゴに入れて、夕方の混雑したレジに並んでいると後ろから声をかけられた。
「久しぶりじゃん、行人」
以前、一緒に住んでいた藍だった。
「あー久しぶり。元気そーっすね?」
「元気、元気。行人はどう?」
「ぼちぼちです」
「そっか。まだ、女のヒモやってんの?」
「ヒモじゃないけど、まぁ、住まわせてもらってるよ」
「君、いろいろ万能だったもんねぇ」
「全然、変わってないっすよ。体感してみます?」
と指で卑猥な動きをしてみる。ほんの冗談のつもりだった。
「あはは」
笑って藍が僕の手をとって、その指に唇をつけ、爪の間を舐めた。
「スーパーのレジ前ですることじゃないですよ」
僕は手を引っ込める。
藍は薄い笑みを張り付けたまま、
「そーだね。ねぇ、これから暇?」と続けた。
「今から夕食作りなんです」
「ヒモは大変だね」
「慣れてるんで」
「ふーん。ねぇ、また会おうね」
レジが僕の番になったので藍の言葉には答えなかった。
僕は藍の部屋を出て行く時、ちゃんとした別れの言葉を伝えていない。
なんと言えば良かったのか、今となっても分からずにいる。
そして、町で会う度にまるで何もなかったかのように声をかけてくる藍の態度に、僕は戸惑っていた。
全ては終わったはずなのに、僕はどこかでまだ藍の奴隷である自分を引きずっている。
と時々思う。
もし、この場で彼女が僕の手を本気で引いて歩き出したとしたら、僕は逆らえない。
どれだけ力で彼女よりも勝っているとしても、僕は調教済みの犬のように従順に藍の命令に従う。
それがどんなに僕にとって理不尽で耐え難いことだったとしても、僕は笑顔でそれに応える。
少なくとも、過去の僕はそういう人間だった。
あの頃と今で僕はどれほど変わったと言えるのだろうか?
僕は手早く買った商品をビニール袋に詰めて、振り返ることなくスーパーを後にした。足を意識して動かさないと震えてしまう気がして仕方がなかった。
――――――――
夕食は鶏肉を多めの酒で煮た親子丼で、秋穂のお母さんがくれた丼が蓋つきだったので、それに装った。
付け合せにトマトとレタスのサラダ。横にアサヒの黒ビールを注いだグラスも置いた。
普段、食事にお酒を飲む習慣は僕にも秋穂にもなかった。
けれど、何か特別な話し合いの時のみ僕はビールを食卓に出した。
テーブルについた秋穂はビールにグラスがあるのを見て、何かを悟ったようだった。
差し向かいに僕が座ると、秋穂は手を合わせて「いただきます」と言った。
僕もそれに続いた。
丼の蓋を開けると湯気がちゃんと立ち込めた。
二人とも黙って親子丼を食べ、時々ビールを飲んだ。
グラスの黒ビールを全て飲み干してから、僕はサル顔やくざの息子グループが行方不明になっていること、優子さんの弟、中谷勇次も現在、学校に登校していないことを話した。
秋穂はグラスのビールを一口飲んでから
「実は」と言った。
「優子さんを最後に見たのは私なんだ。見慣れない白い車に乗っているところを私は見たの。車を運転しているのは男だった。
その後に優子さんの彼氏さんが職場に来たの。優子さんのことを訊くから、白い車に乗っているのを見ましたよ、って言ったんだ」
うん、と頷いた。
「よく考えたら優子さんは何かトラブルに巻き込まれていたのかも知れないんだよね。
ううん、よく考えなくても、そうだったんだよ。
あの時、私が彼氏さんに言うよりも前に、ちゃんと警察に連絡していれば何か変わったのかも知れない」
分からない、と僕は言ってから
「でも、それは無理だったんだよ」と続けた。
「無理、うん、そうだよね。……今日さ、警察に行ったんだ」
少し意外な気持ちで、うんと頷いた。
「私一人じゃあ信用してもらえないと思って、お父さんの会社の人について来てもらってね。でも、まともに取り合ってもらえなかった」
そっか、と僕は言った。
「そりゃあそうだよね。だって、事件は何も起きていないんだもの。行方が分からなくなった人がいます。それだけ。
ねぇ、行人。私は悔しいよ」
「うん」
「悔しい……」
秋穂は俯いて肩を震わせた。
何か喋ろうと口を開いたが、僕の声よりも先に秋穂が顔を上げた。弱々しい笑みがそこにはあった。
無理やり作った笑みだった。
「ねぇ秋穂」
「なに?」
「ビール、まだ飲む?」
「うん、もらう」
僕は冷蔵庫から黒ビールの缶を二つ持ってきて、一つを開けて秋穂のグラスに注いだ。
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