2013年【行人】秋穂はお姫様で僕は用心棒。

 潮時なのは分かっていた。

 ただ、藍の部屋を出ても行く場所もお金も僕にはなかった。


 そんな頃、秋穂から連絡があった。

 携帯のデータを初期化されてもメールや電話を受けることはできる。久しぶりに聞いた秋穂の声は、ひどく遠くに感じた。

 近状報告のような話を互いにした。大した話じゃなかった。秋穂も大学の話をぽつぽつとしてくれた。

 その後、少し強張った声で秋穂が言った。


「ねぇ、行人。お父さんが書斎代わりに使っていたマンションの一室を使わせてもらえるようになったんだ。だから、一緒に住まない?」


 秋穂の両親は地方番組でCMを流すリフォーム会社の社長で僕も面識があった。


「どうして?」


 最初に出たのは疑問だった。


「今いる環境が行人にとって良くないって思ったから」


「そっか」


 秋穂は知っているのだ。その事実が、僕の心の結び目を緩めた。


 電話を切ると僕は部屋の真ん中でへたり込んだ。

 藍から離れられる。

 その事実が体を駆け巡った時、藍の部屋にはいられなかった。持つものもほどほどに部屋を出た。


 行く場所なんて無かった。

 闇雲に足を動かして行きついたのは秋穂の家の前だった。インターフォンを押せず立ち尽くしている僕を見つけたのは秋穂の兄、ナツキさんだった。


 ナツキさんは事情も訊かず、僕を家にあげてくれた。

 秋穂の両親は突然の僕の訪問を歓迎してくれた。

 秋穂の母は嬉しそうに僕の分の夕食を作ってくれた。食欲をかき立てるような匂いがリビングにまで届いた頃に秋穂が返ってきて、皆でテーブルを囲んだ。


 僕は家族が揃っての夕食に心安らんだ記憶が殆どなかった。

 藍との夕食でさえ彼女の機嫌を窺っていた僕にとって、秋穂の家での食卓は心地の良い南国で寝そべるような幸福があった。

 秋穂が父の書斎のマンションに移るまでの間、僕はナツキさんの部屋で寝泊まりさせてもらった。


 一度、秋穂の父の晩酌に付き合い、そこで「秋穂を頼むよ」と言われた。

 なんだか結婚を許されるような感じだった。


 そうして始まった秋穂との生活も一年が過ぎようとしていた。

 藍との生活同様、家事の一切を僕が引き受けた。洗濯だけは私がすると言った為、洗濯は秋穂の担当となった。


 秋穂は大学とは別にスーパーでのアルバイトもしていて、日々忙しそうに動き回っていた。けれど、日曜日だけはアルバイトを入れていなかった。多分、僕と一緒に過ごす時間をちゃんと作ってくれていたのだろう。


「幸せってこーいうことかな?」


 ソファーに寝そべった秋穂が言った。部屋の全ての窓を開けて、掃除を終えた心地の良い正午だった。


「こーいうことじゃないかな」


 とマットレスに寝転んだ僕はソファーの方に手を伸ばして秋穂の手を握った。

 ありがとう、と言う言葉が自然とこぼれた。秋穂は何も言わなかった。

 僕は未だに秋穂を抱いていない。


 秋穂はお姫様で僕は用心棒。

 そういう気持ちが僕の中には確かに残っていた。

 兄貴と同じ血が僅かでも流れていて、奴隷として生活した僕の汚れたものが秋穂の中に入るなんて、まるでホラーだった。


 なのに秋穂との生活の中で僕は幾つかの場面で勃起した。

 心と体が離れていることに嫌悪した。僕の体は女であれば誰でも節操なく反応するのだ。

 募った苛立ちを発散するように僕は駅前や街へ出てナンパした。


 十回して一人から二人と連絡先を交換できて、上手く立ち回ればホテルへ行くことができた。

 知らない女に向けて射精する時、僕は更に自分が詰まらない人間になっていると、吐きそうになった。


 実際にホテルのトイレで吐くこともあった。

 胃の中にあるものを吐き出したところで、世界も僕も変わらない。

 僕は変わらないといけない、とどこかで実感していたけれど、どうすればいいのか、何をすればいいのか、まったく分からなかった。

 あるいは、分かろうとしなかった。

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