これ、好き

 その日の雨は、この一週間でいちばん激しく窓ガラスを叩いていた。


 外では風も吹き荒いで庭園の木々が揺れている。まるで嵐のようだった。

 ミュージアムには沈黙が下りていた。

 買い溜めておいた食料は底を尽き、もう二日ほどオレたちはなにも口にしていなかった。



「――――ああああああああぁぁぁああああああぁぁぁあああああああああっ‼」



 突然、ホールのほうからユキの叫び声がきこえてきた。

 オレはレストランのイスから飛び上がり、ホールの中へと駆け込む。


「ユキ!」


 ユキはホールの真ん中で天井を見上げながら立っていた。


「どうかしたのか⁉」


 慌ててユキの正面に回り込む。

 ユキは口から細い息を吐き出していた。


「なんか、叫びたくなっちゃって」


 焦るオレとは対照的に、彼女は爽やかな顔で言った。


「……びっくりさせるなよ」

「心配した?」

「したよ」

「そっか」

「今日は声、出るんだな」

「うん。今日は声、出る」


 ユキは自分から出る水泡のひとつを指先で抓んだ。

 パチンとはじけて、こわれて消えた。


「ねえ、コウ。ごめんね、最近心配かけること多くて」

「なにいってんだよ」

「だから、コウ」


 ゆらり、と。

 ユキがオレのほうに白い手を伸ばしてくる。


「踊って。わたしと」

「……は?」


 ひとりで立つユキの足は震えていた。

 今にもその場で崩れて膝を折ってしまいそうだった。

 そんな状態で、ユキは言う。


「わたしは全然、大丈夫だから。まだまだまだまだ、大丈夫だから」

「……」

「だから、コウ」


 青い瞳にオレの姿が映り込む。


「わたしと一緒に、踊ってよ」


 いつもの冗談みたいな口調じゃない。

 極めて真剣な声色で、表情で、ユキはオレにそう言っていた。

 ユキは今、自分の可能性とか、未来とか、そういうものを計ろうとしているのだと思った。


 ここまでなのか。ここからなのか。


 その覚悟を、オレのちっぽけな羞恥心で無為にさせるわけにはいかなかった。


「……茶化すなよ?」

「うん。茶化さない」


 ずっと踊っていられたらマーメイドシックは治る――そんなこと、ないのかもしれない。

 でも。気の済むまで踊れたなら。足の痛みにうち勝てたなら。そのときなにかが変わるかもしれない。

 もしも二人で最後まで踊りきれたなら、オレにもまだできることがあるのかもしれない。


「……下手だぞ、オレ」

「いいよ。わたしも、はじめてだから」


 オレはルーシーのぜんまいを巻く。

 ぎーぎーと、曲を再現するための音がする。


「ぜんまいを巻く音ってさ。なんかいいよね」

「おまえの感想はいつも漠然としすぎてるんだ」

「だって、ハッキリとした言葉にすると心からズレちゃう気がするんだもん」

「それでも、ときどきはちゃんと言葉にするべきだ」

「じゃあ、そうだな……ぜんまいを巻く音って、願いを叶えるための音って感じがする」

「なんだよそれ」


 オレはぜんまいを巻き終えて、もう一度ユキと向かい合う。

 ユキはずっと手を伸ばしたままでいた。


「秘めていた願いが、溢れ出すみたいじゃない?」


 そう口にするユキの手を、オレは取った。


 牧歌的なメロディが流れ出し、オレたちはルーシーと一緒にくるくると踊った。

 踏み出してすぐ、ユキがぐっと歯を食いしばる。

 少しでも彼女の痛みが軽くなればいいのにと願いながら、オレはユキの腕を引き上げていた。


「わたし、パイロットになりたかったんだ。子供の頃」


 俯きそうになる顔を上げて、降りしきる雨なんか遠いどこかへふきとばしてしまえそうな溌剌とした声で、ユキは語る。


「先鋭形の、自分で作ったオリジナルの小型宇宙船に乗って空へと飛び立つの。地上で手を振ってくれてるたくさんの友達に雲を引いて『thank you』なんてメッセージを描きながら大空の向こうにいくの」

「それは、途方もない話だな」

「時速一万キロメートルで銀河を旅して、まだだれも知らない星を見つけて名前をつけるんだ」

「なんて名前?」

「ユキ星」

「安直かよ」

「それで、きっとたくさん大変なことがあって、ひとりきりの孤独を感じたりもするんだけど、その全部を乗り越えて地球に帰ってきたら『楽勝だったよ』って微笑むの」


 曲が終わるよりも早く、オレはべつの曲を鳴らしてダンスを続ける。

 ルーシーが止まってもオレたちは止まらない。


 自動演奏ヴァイオリン。フォノリスト・ヴィオリーナが駆動して「ハンガリー舞曲」が流れ出し、オレたちが踏むステップのリズムも変わる。


「ミュージシャンにもなりたかったな」

「それはまた突飛なほうに夢がとんだな」

「髪の毛とか紫に染めて。耳と鼻とおヘソにピアス開けたりして。政治や宗教を批判しながら変わらない愛を歌うんだ」

「ずいぶんなロックスターだ」

「男の子にたくさんチヤホヤされちゃって、わたしは含みのある笑みと手招きでそんなボーイズの心を翻弄するの」

「このド腐れビッチめ」

「いいね、それ。バンド名はそれにしたい」


 デライカDF26。ハーヴェストよりもいくらか小さな手回しオルガン。


 オレたちは手を繋いだまま交互にオルガンのハンドルを回し合う。

 それ自体が滑稽なダンスみたいになっていた。

 流れ出したメロディがハンドルを回す速度によって早くなったり遅くなったりする。


「だけどやっぱり、ふつうがいいかな」

「ふつうって?」

「ふつうに学校にいって、ふつうの大人になって、ふつうの恋愛をして、ふつうに結婚する。そういうのに、今は憧れる」

「……」

「なんでもないことで喧嘩もして、だけどなんでもないことで仲直りする。それで、なんでもない日々を大切に思いたいな」


 デライカを置き去りにして、オレたちはハーヴェストで「カッコウワルツ」を鳴らす。重たいハンドルを二人で持って回しながら。


「コウは?」

「オレ?」

「うん。コウは、なにになりたかった?」

「なりたいものなんて、べつになかったよ」

「じゃあ、今はなにになりたい?」

「今、か」


 オレは銀貨を一枚手に取って、ディスクオルゴールの中に放り込む。


「今は、おまえの力になりたい」


 木製の棚の中で銀色の円盤が回り、再生されていくのは「結婚行進曲」。


「これ、好き」

「オレもだ」

「好き?」

「ああ。好きだよ」


 リズムに合わせてステップを踏む。

 四足のスニーカーが床を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。


「だからオレは学校にいく。そこでユキのことを待ってる」

「えー。待ってなくていいよ。いつ戻れるかわからないし」

「きっとすぐに戻ってこれるさ」

「それよりも、コウと一緒に山頂にいきたい」

「ああ。それもまたいけばいい」

「コウは夜景なんか見てもやっぱり感動なんかしないんだけど、わたしはコウの向こうに見える景色をとってもキレイだって思うの」

「ああ」

「だけどホントはコウにも、ちょっとは感動してほしいかな」

「きっとすると思うよ」

「どうして?」

「おまえの向こうに景色があるから」


 宙を漂う無数の水泡がホールを幻想的な空間へと変えていく。

 ユキの姿が現実から乖離して見えていく。

 立ち並ぶオルゴールに囲まれて、物語の中に迷い込んでしまったみたいに思えてくる。


「ねえ、コウ。やっぱりわたしのこと、特別扱いしてない?」

「そう思うか?」

「うん。だってたぶん、山頂からの景色をただの友達とみても感動なんてしないもん」

「だったらおまえもオレのこと、特別扱いしてることになるぞ」

「うん。そうなるね」

「やっぱり嫌か? 特別扱いされるのは」

「うん」

「そっか」

「でも、コウにだけはされてもいいかも」

「なんだよそれ」

「なんだと思う?」

「やっぱりオレに言わせるのか?」

「ずっとそうだったでしょ?」


 ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、オレたちはケンペナーの前でポーズを決める。


 続いてケンペナーを鳴らそうとするオレをユキが引き止める。

 オレの腕の中に、こっちをじっと見つめて言葉を待つユキがいる。


「答えを教えてよ、コウ」


 オレたちが出会ったときに流れていた「結婚行進曲」が終わっていく。

 遠ざけていた雨音がゆっくりと世界に戻ってくる。


「……」


 赤い髪。青い瞳。浮かぶ水泡。マーメイドシックにかかった女の子。

 それがなんだっていうんだ。

 ユキは繋いだ手の先にいる。

 オレがこの手を離さなければ、きっとずっとそれは変わらない。


「…………オレは、おまえのことが…………」


 大きく息を吸い込んで、胸の中にある大切な言葉を探す。

 その言葉は心のいちばん深いところにあった。

 オレはそれをぐっと喉までせり上げてユキに伝えようとする。

 その瞬間――。



「――――!」



 すべての音を掻き消す雷鳴が轟いた。

 ビリビリとホール全体が軋むように揺れた。

 オレたちの「結婚行進曲」は余韻も残すことなく止まってしまった。


 そして。


 ユキの身体が、ゆっくりと、静かにこちらへたおれてくる。


「――――おい、ユキ⁉」


 いくら呼びかけても返事はなかった。


 胸の内を探して、やっと見つけて口にしようとした言葉は――なぜだろう?


 もう二度と、伝えることができないような気がした。

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