――しかるべき七月の回帰――

わたしをみつけてみて

 あったはずのものがない。

 そんな感覚になって目を覚ました。


「……」


 隣にユキがいなかった。

 繋がれていた手に、今はオルゴールが乗せられていた。

 オレは昨日のことを思い返してひとりで悶絶する。


「……会いづらい」


 どんな顔をしてユキに会えばいいのかわからなかった。

 この狭い部屋で、二人きり、一夜を過ごした。

 その事実は、後々心にくるものがあった。

 温かさに包まれているようだった胸が今は妙に高鳴っている。


「…………よし」


 外れていたボタンを留め直し、腹をくくって立ち上がる。

 窓の向こうでは今日も雨音がしていた。

 オレは写真の中にいる早希とじいさんに別れを告げて部屋を出た。


「大丈夫。ふつうにしてればいいんだ」


 レストランのガラスドアの前で軽く咳払い。

 よれていたシャツの襟を直して、オレはドアを開けた。


「おはよう」


 中を見回してみる。

 が、広いレストランにユキの姿はなかった。


「……なんだ、いないのか」


 ユキがいない。その事実にホッとしながら、同時にどこかがっかりしている自分もいた。

 オレはレストランを出てホールの扉を開ける。


「……ユキ?」


 呼びかけてみるが返事はない。

 トイレだろうか。なんてことを考えていると、上のほうでケータイの鳴る音がした。


「……?」


 鳴っているのはオレのケータイだ。

 でも電池がもったいないから杉原には電話をかけてこないよう言ってある。

 あとオレの番号を知っているのは両親くらいだけど、このミュージアムに立てこもってからは互いに連絡をとらないようにしている。

 いぶかしく思いながらも三階の部屋へと戻り、オレはケータイの画面を見た。

 非通知だった。


「……もしもし?」

『もしもし』


 ケータイの向こうから、ユキの声がした。


『こちら、宇宙人』

「……番号、教えてないよな?」

『杉原くん星人からきき出した』

「充電なくなるから、あんまり通話はしたくないんだけど」

『昨日のコウ、なんかかわいかった』

「男子にかわいいとかいうな」

『じゃあ、かっこいい?』

「かっこいい要素なんてどこにもなかっただろ」

『うん。そうだね』

「なあ、ユキ」

『会いたい?』

「え?」


 しばしの沈黙が流れた。

 素直な気持ちを伝えるのには勇気がいった。

 でも、およそ秘密といえるようなことは昨日の夜にすべてうちあけた。だから今更捻くれても恥ずかしいだけだと思った。

 だからオレは言った。


「ああ。会っていろいろ話したい」


 また、しばしの沈黙が流れた。


『考える鳥』

「は?」

『考える鳥といえば?』

「……シンギングバード?」


 オレは部屋を出て第三展示室にあるシンギングバードの前にいく。

 しかしそこにユキはいない。


「これがなんだっていうんだよ? あとこれはシンキングじゃなくてシンギングだ」

『あ、歌う鳥か』

「ぜんまいを巻けば金属の鳥が本物みたいに羽を動かして囀る」

『じゃあ、マコーディオンがあるのは?』

「二階の通路。それがなんだよ?」

『かくれんぼだよ』


 と、ユキは言った。


『だからわたしを見つけてみて』


 オレは二階に下りて自動演奏アコーディオン「マコーディオン8型」の辺りを探してみる。が、やはりユキの姿はない。


『千八百八十年。スイス』


 三階に戻ってスイス製のシリンダーオルゴールを探す。

 サブライムハーモニーのものがひとつあったが、同じくそこにユキはいない。


『ねえ、サブライムハーモニーってなに?』

「同じ音を鳴らす二つの振動版を組み込んで、調律を微妙にズラすことで音に奥行を与えたもの」

『へえ』

「で、ここにも見当たらないわけだけど?」


『千八百八十円。スイス』

「……えん?」


 少し考えて、オレはレストランにもどった。

 机の上にあるメニュー表の中に「千八百八十円のラクレットチーズランチ」があった。


「ラクレットチーズってスイスなのか?」

『そうだよ。発祥はね。知らなかったの?』

「オレが知ってるのはじいさんに教えてもらったオルゴールのことだけだ」

『じゃあ「結婚行進曲」』

「じゃあって……」


 レストランを出てホールの扉を開ける。


「ここはさっきも見た」

『いいから。鳴らしてみて』

「……なんだっていうんだよ」


 ディスクオルゴールの上に並べてあった銀貨を投入して、いつものように「結婚行進曲」を流す。


『踊って』

「いやだ」

『いいから』

「……」


 そのとき、オレはホールに立ち並ぶオルゴールの裏で一粒の水泡が昇っていくのを見た。


『しょうがないなあ。コウが踊ってるとこ、見たかったのに』


 ケータイを耳から放してみる。

 天井にあたってはじけた水泡の下で、ユキの声がしていた。


『なら、つぎは……』


 オレは通話を切り、オルゴールの裏に回りながら声をかける。


「ユキ、みーつけた」


 オレはユキをみつけて、かくれんぼは終わった。

 流れていた「結婚行進曲」も止まった。

 それから。


 長い――とても長い、数秒の沈黙が訪れた。



「……みつかっちゃった」



 はじめて出会ったときのように小さく丸まっていたユキが、ゆっくりと身体を起こして振り返る。


「…………おまえ…………」


 ユキの髪が、赤一色に染まっていた。

 サンゴのように真っ赤な髪と、海面のような青い瞳。

 その色彩はまさしく、物語の中に出てくる人魚のようだった。


「……へへっ」


 ユキは目を瞑って笑った。

 それはユキがなにか心を隠そうとするときの笑い方だった。

 昨日のお礼とか、直接会ってから言おうと思っていたあれこれが、全部ふっとんだ。


「……おまえやっぱり、わるいのか?」

「どう思う?」


 いつもユキは自分の状態についての判断をオレに委ねてくる。

 そのたびにオレはまだ大丈夫だろうと思っていた。直感をごまかすみたいに、自分にそういいきかせていた。

 だけどもう、目を逸らしているのも限界だった。


「……わるいだろ、それ」


 ユキは笑みを貼りつけたまま固まった。

 すこし、傷ついたみたいだった。

 そして。


「全然だよ。まだ、全然」


 自分にいいきかせるようにそう呟いた。


「いつから?」

「朝、起きたらこうなってた。まあでも、中途半端に赤いよりはこっちのほうがいいよね」

「……クスリ、飲んでないんじゃないのか?」


 ユキが顔をしかめる。


「杉原くんからきいたの?」

「症状の発現を抑えるクスリがあるってことは」

「ふーん」


 ユキはケータイをポケットにしまった。


「入院、するはずだったんだろ?」

「……わたし、そんなことまで教えてない」

「おまえの両親が教師に伝えたのをきいたんだと」

「……そんなこと、言わなくていいのに」

「おまえのこと、探してるって」

「そう」

「なあ、ユキ」

「ねえ、コウ」


 オレの言葉にかぶせてユキが言う。


「わたしは帰らないよ」


 オレがなにを言おうとしたのか、わかっているみたいだった。


「山頂にいくまで、わたしは帰らない」

「その足で登れるのか?」

「平気だよ」


 そう言いながら立ち上ろうとしたユキの身体が、ふらりとよろけた。

 オレは咄嗟に腕を差し出して彼女の身体を受け止める。


「……本当は、痛いんだろ?」

「昨日も言ったじゃん。痛かったら踊ったりできないって」

「ムリしたんだろ?」

「病人扱いしないでよッ!」


 ユキの大きな声がホールに響いた。

 オレを突きとばして、ユキはその場で膝をついた。


「……コウは、そうやって腫物に触るみたいにしないから一緒にいてたのしかったのに。わたしのこと勝手に心配したりしないから、らくだったのに」


 ユキの身体からまたひとつ水泡が昇っていく。

 彼女の命が分解されていく。


「心配されないために、痛いのを隠してたのか?」

「…………本当のこと言ったら、コウは余計な気を遣うじゃん」

「余計って……」


 ユキがふつうに接してほしいのはわかっている。

 だけどこっちからしたらあたりまえの気遣いくらいさせてほしいと思う。

 もてはやしたり祀り上げたりするんじゃなくて。目がわるいやつに前の席を譲ったり、風邪で休んでるやつの代わりにノートをとったりする――それがオレにとっての“ふつう”だ。


「おまえだって昨日、オレのことを心配してくれたじゃないか。心を配ってくれたじゃないか」

「……」

「自分は余計な世話を焼くくせに、それを焼かれるのは嫌だなんて、通るかよ。人に気を遣うならおまえはちゃんと人に気を遣われるべきだ」

「…………わたしは、まだなにもできないわけじゃない」

「なら立てよ」


 ユキが青い目でぎっとオレのことを睨んでくる。

 そして両足を地面について、彼女は立ち上がった。


「立ったよ」

「ああ」


 オレはユキの眉間に寄せられていたシワを指でほぐす。


「べつに学校のやつみたいに騒ぎ立てようってわけじゃない。おまえにできることはあたりまえにおまえがやればいいさ。ただ、できないことを隠してムリすんなって話だ」


 ユキの瞳の色が本来の色へと戻る。

 そして、きつく尖らされていた目の端が落とされて、とろんとなった。


「……コウはわたしを特別扱いしない?」

「してほしいのか?」


 ユキは首を横に振った。


「なら、しない。というか、してほしいって言われてもしてやらない」


 ユキは先輩でもないし、ましてや人魚姫でもない。ただの同級生で、ただの友達だ。

 だからオレはユキを特別扱いなんてしない。


「……そっか。そうなのか」


 頷きながらひとり呟いて、それからユキは目を開けたまま笑った。


「なら、いいよ」


 そのとき、オレはいったいなにを許されたのかわからなかった。

 けれどユキがすこしだけ心を開いてくれたようでうれしかった。


 オレたちの間にある隠し事が氷解していくようだった。

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