それは、きっと幸せなことだよ
オレたちはホテルを出た。
バイクに跨り、杉原がエンジンをかける。オレは後ろで傘を差す。
「…………」
帰り道は無言が続いた。
傘を叩く雨音がエンジン音に勝っていた。
やがてミュージアムに到着し、オレはバイクから下りた。
「今からいって、伝えるのか?」
「いや。ちゃんと告白の返事をしてから伝えるよ」
「そっか」
駐車場からミュージアムのほうへと戻っていくオレの背中に、声。
「なあ、コウ。ちゃんと渡来さんのこと、見といてくれよな」
「はあ? どういう意味だよ?」
「…………学校では、というか、渡来さんがいた周囲では、彼女の家出がけっこう問題になっててな」
「へえ」
家を出ることをすんなり許されたオレとはずいぶんな違いだと苦笑する。
「昨日、入院するはずだったらしいんだ」
「え?」
「渡来さんの両親が言ってた、のを、教師が言ってた。たぶん、かなり探してると思う」
「……」
「それでも、俺は彼女の意志を尊重したいから周囲には言わない。言わないけど、もし渡来さんになにかあったら、いつでも呼んでくれ。テストもバイトもすっぽかして駆けつけるから」
「なにかって……なんだよ?」
たしかにユキはマーメイドシックを患っている。ときどき身体から水泡が昇っていくし、髪の色も先端が少し赤くなっている。おそらく、いつか、死ぬだろう。
でも、だからって、すぐになにがあるっていうんだ?
足の痛みもないようだし、声だってちゃんと出ている。瞳がたまに青くなる――それくらいだ。
「……本当は、山なんて登ってこれるわけがないんだよ。ダンスだって、踊れるわけがないんだよ」
「…………」
「だから、頼む」
そう言い残して、杉原はひとり山を下っていった。
傘に落ちる雨音が、すこし強くなった気がした。
「…………オレにどうしろっていうんだよ……」
傘立てに傘を放り込んで玄関のドアを開ける。
灯りのない暗闇に、ヒトダマみたいな青い光がぼーっと浮かんでいた。
「うわあっ⁉」
思わず尻餅をついてしまう。
青い光がすっと細くなった。
「おかえり」
よく見ればそれは、ユキの瞳だった。
階段のところでユキが三角座りをしていた。
「ビ、ビビらせんなよ……」
「びっくりした?」
「なにしてんだよ、こんなとこで」
「なにしてんだ、はこっちのセリフだよ。なに二人で温泉いってんのさー」
「いかないって言ったんだろ?」
「だからってわたし置いて二人でいくとか、ナシでしょー」
「じゃあどうしたらよかったんだよ?」
「せめて温泉のお湯を持ち帰ってくるべきだった」
「無茶言うな。だったらいけばよかったじゃないか」
「わかってないなー、コウは」
「なにを?」
「人魚病の子がいたらみんな心配したり避けたりするでしょ? だから家の浴槽で金泉に浸かりたいの」
「そんな愚痴を言うためにずっとオレのこと待ってたのか?」
「ううん」
ユキは首を横に振った。
「このミュージアムを案内してくれるって約束だったでしょ?」
そういえば、杉原がやってくるまではそんなことをしていたんだった。
「案内っていってもあとは三階だけだ。ひとりで見てればよかったじゃないか」
「コウに案内されたいの」
そういってユキは立ち上がり、手すりを持ちながらゆっくりと階段を上っていく。
長く伸ばされた彼女の髪が、朝よりも赤くなっていた。
昨日はまだ先端しか染まっていなかったのに、今はもう半分くらいのところまで色が変わってしまっている。
そういえば、踵を返すまでユキの瞳はずっと青いままだった。
「……なあ、ユキ」
「うん?」
尋ねようか、すこし迷った。
でも、そうやってうまく気を遣うのは杉原に任せればいいと思った。
「おまえ、わるいのか?」
ユキの足が止まった。
ややあって、彼女は振り向いた。
「どう思う?」
青かった瞳がまた黒へと戻っていた。
「……わかんねーよ」
彼女の症状は目に見えて進んでいる。
けれど、それがどれくらいの段階にあることなのか、専門家でもないオレにはわからなかった。
「言ったでしょ。悪かったらこんなところまで登ってこられないって」
杉原もそう言っていた。周囲の人間が彼女を探しているとも。
普通に考えたらこんなところまで登ってこられる状態じゃない――だからここまではユキを探しにきていないのかもしれない。
「手すりを持ってるのは?」
「暗くて危ないから」
「ゆっくり階段を上ってるのは?」
「コウがなかなか前にいってくれないから」
「……わかったよ」
オレはユキを追い越した。
窓から差し込む頼りない外の明かりだけが足元を照らしていた。
「懐中電灯、とってくるよ」
「いいよ、なくても。コウが説明してくれたらそれをきいてるから」
それじゃあ展示されてるオルゴールが見えないじゃないか。
そういってやりたくなったけれど、なんだかオレの力量を試されているようで癪だった。
だから三階に到着するとすぐにオレは説明を始めた。
「向かって左手に見えますのは、当ミュージアムの第二展示室でございます」
「なにその喋り方? おかしい」
「世界ではじめて作られた印章型のオルゴールを筆頭に、各時代を象徴するシリンダーオルゴールがいくつか飾られております」
「はい、先生」
「先生じゃなくてオーナー」
「シリンダーオルゴールってどんな見た目なんですか?」
「一目瞭然だと思うのですが」
「暗くてよくみえないので教えてください、オーナー」
「長方形の箱の中にシリンダー――つまり円筒を格納したものが一般的な形です。シリンダーが回転し、振動版を弾くことで音が鳴るわけですね。時代が進むにつれてシリンダーも小型化されていき、今ではほとんどのオルゴールがこのシリンダー型となっております」
「へえ」
「続いて右手に見えますのが第三展示室。音に合わせて動く小型のオートマタと、オルゴールの次世代機として注目された蓄音機が展示されております」
「こっちは?」
「そちらは水の流れないトイレとなっております」
「じゃあここは?」
「あ、おい」
ユキが開けたのは、オレが寝床にしている部屋だった。
奥の窓から差し込む明かりが壁際に飾った一枚の写真を照らしていた。
「……」
四角く切り取られた瞬間の中に、もう死んでしまったじいさんと幼い頃のオレに手を繋がれた妹がいた。
まだこのミュージアムが営業していた当時、妹が六歳になった記念に撮った写真だった。
「妹、いたんだ」
「ああ、いたよ。半年前まで」
「……」
「飛び込み自殺なんだってさ。どこかの踏切で」
オレが自転車で学校にいって、父親が車で会社に出かけて、母親が家事を一段落させてワイドショーを眺めている時間。
妹の早希は、中学校とは反対の方角にある駅で電車に乗って、それから一度下りて、一駅歩いて、一呼吸おいてから、警鐘が鳴る踏切の中へと飛び込んだらしい。
――なんて。
教えられた情報はひたすら遠いところで起こった知らないだれかのことみたいで。目の前で両親が泣き崩れたり警察が沈痛な面持ちで話をすればするほど、早希の帰ってくる場所がなくなってしまう気がした。
「いつもどおり明るくしていれば、いつか早希は家出にも飽きてなんにもなかったみたいな顔をして帰ってくると、オレはしばらく本気で信じていたんだ」
だから、周囲の人間が生き方を忘れたように暗く沈んでいる中、オレだけはいつもどおりにしていた。
いつもどおり、食卓の大皿に乗っている唐揚げを早食いしていた。いつもどおり、二回ノックしたあと三秒おいて早希の部屋に入っていた。いつもどおり、早希の代わりに宿題をやって貯金箱から三百円をとっていた。いつもどおり、春休みが終わったら学校にいっていた。いつもどおり、話していた。いつもどおり、眠っていた。
「ある日、早希が大事にしていた手作りのオルゴールを机から落としちまった。いつもならそれだけで早希はうるさいくらいに文句を言ってきてたんだ。赤い宝箱の形をしたオルゴールだった。箱が開いて、巻かれていたぜんまいがひとりでに回り出して、『結婚行進曲』が流れ出した。勝手に、メロディが進んでいったんだ」
オレは部屋からテレビのリモコンを持ってきた。
「完全に音がしなくなるまでオルゴールをぶっ壊した。叩いて、投げつけて、踏みつぶして、あたりに破片が散らばって、バラバラになったぜんまいが転がったけど、早希はなにも言ってこなかった」
オレの頭と心が、認めてしまった。
――早希はもう、いないのだと。
理由もなにも語らないまま、ひとりで勝手に死んでしまったのだと。
「それからオレは…………」
語り続けようとしていたオレの身体が、ふっと布団の上に横たわる。
ユキが、オレのことを押したおしていた。
なにも考えず、無自覚のうちにペラペラと動いていた口が、止まった。
「……なんだよ?」
「なんでもない」
オレに覆いかぶさったままユキは首を横に振った。
「こんな話、ききたくなかったか?」
「ううん。続けて」
ころん、とオレの上から転がって隣に寝そべるユキ。
オレの手は、ユキの手に繋がれていた。
普段ならすぐに振り払っているはずだった。
でも、なぜか今はその手を離す気にはなれなかった。繋いでいたいと――繋がれていたいと思ってしまっていた。
だからオレは、低い天井を見上げたまま話を続けた。
「まず、学校にいけなくなった。いく意味がわからなくなった。満足に眠れなくなった。眠る意味がわからなくなった。食事が喉をとおらなくなった。どうやって喉にとおしていたのかわからなくなった。ずっと家にいると、どんどんその状態が重くなっていくようだった」
このままじゃいけないと思った。
「だからオレは、このミュージアムに立てこもったんだ」
しばらく家を出ることを伝えると両親はすんなりと了承してくれた。どんどんふさぎ込んでいくオレを見て、二人も心を病んでいたのだと思う。
たぶんどちらにとっても、限界だったんだ。
「おとうさんとおかあさんは知ってるの? コウがここにいること」
「ああ。それだけはハッキリときかれたし、答えた」
突然、なんの前触れもなく身内に消えられる苦痛はよく知っていたから。
「このミュージアムにいるとすこし状態がマシになった。家よりもここのほうが早希と一緒に過ごした思い出が色濃くて、鮮明だったから。オルゴールの音をきくたびに、早希といた時間を思い出す。近くに早希がいるような気がする」
オレは写真立ての横に置いてあったオルゴールを手に取る。
ぜんまいを巻いて、その音を鳴らす。
変わらない音が、同じリズムで、流れ続ける。
「このオルゴールと一緒さ。過ぎ去った時間を再現するばかりでちっとも前に進めない。オレはずっと、もういないやつの人生に囚われ続けている」
このままじゃいけない。そう思っている。
でも、いつまでたってもオレは本質的にここから出られていない。買い物にいったり、温泉にいったりしても、またすぐここに戻ってきてしまう。ここを、オレの帰る場所にしてしまっている。勝手に死んだやつに後ろ首を引かれてしまっている。
「本当はわかってるんだ。もうここに早希は――どこにも早希はいないってことくらい」
オルゴールの音が止まった。
オレはぜんまいを巻きなおそうとする。
「そんなこと、ないよ」
そういって、ユキがオレの手からオルゴールを取り上げた。
「どこにもいないなんてこと、ないよ」
「いないだろ、どこにも」
「いるよ、すぐそこに」
「霊感でもあるのか?」
からかおうとするオレの胸に、ユキがそっと指先を当ててくる。
「ここで、ちゃんと生きてる」
なにを言っているのかわからなかった。
うまいこと言おうとしたつもりならスベっていた。
早希はもう死んだんだ。
その事実をテキトーな言葉でごまかそうとするユキに怒りさえ湧いた。
「おまえさあ……っ!」
なにか、言ってやろうとした。
ユキが無自覚にオレの過去を踏み荒らしたぶん、オレは意図的に彼女の心を傷つけてやろうと思った。強い言葉や汚い言葉で、彼女の尊厳を貶めてやろうと思った。
そう、思ったのに。
それくらい、腹が立ったのに。
「…………」
言葉が出なかった。
目尻からなにか、温かいものが頬に伝って、繋いでいた手に流れ落ちた。
「…………は?」
オレの目が、泣いていた。
「……なんだ、これ?」
ぽたぽたと。ぽたぽたと。
溢れ出した涙が伝い落ちていく。
意味がわからなかった。自分がどうして泣いているのか。どうしてユキに指された胸の内側に温かいなにかがひろがっていくのか。
「なんで、泣いてるんだ、オレ?」
苛立ちが沸点を超えた、というわけでもない。これはそういうときに流れる涙じゃなかった。早希が勝手に死んだことを知らされたときだってオレは泣かなかった。オレだけは泣かなかった。なのに、なんで。
「ずっと、溜め込んでたんだもんね。いいよ、泣いて」
「いやだ」
「泣けばいいんだよ」
「いやだ」
「泣いても、早希ちゃんはいなくなったりしないから」
その言葉をきいた瞬間、オレの中のなにかが決壊した。
涙は制御がきかなくなってちっとも止まらないし、喉はひくつくし、みっともない声ばかりが出る。なのに胸の内側はひどく温かい。
オレが、溜め込んでいた? これを?
早希がいなくならない? いなくなったじゃないか。
「……早希は……死んだんだ……!」
「うん」
「……どこにも……いないんだ……っ!」
ユキが両手でオレの手を包み込む。
「コウがずっと覚えていてあげれば、早希ちゃんはきっといなくならないよ。死んでも、コウの中で生き続けるよ」
まただ。そんなこと言われたって困るんだ。
「オレはあいつのことを忘れて……いつかあいつのいない現実に戻らなくちゃいけない」
「忘れず、抱えたまま戻ればいい」
「忘れないと生きていけない」
「じゃあ、忘れたらいい」
無意識に、すがるように、オレはユキの手をぎゅっと握りしめていた。
「……忘れて、ときどき思い出せばいい。それでまたここにくればいい。進んだら戻れないなんてことないんだから、ぜんまいみたいにときどき巻き戻せばいいじゃん」
ユキの言葉が胸に染み渡る。
そして、ユキの温かさに包まれながら、気づいた。
…………オレはずっと、だれかに許されたかったのかもしれない。オレが早希の死を受け入れてしまうことを。
すくなくとも自分では許すことができなかった。だからこのミュージアムに立てこもるしかない状況に自分の心を追い込んでいた。
オレが早希のことを忘れたら、早希のことで苛まれなくなったら、早希が生きていたという事実まで消えてなくなってしまうような気がしていた。
それが怖かった。
オレがこのミュージアムに立てこもっていたのは、他のだれに対する抗議でもない。早希のことを忘れて生きていこうとする自分自身への抗議だった。
まちがっていても、続けなければ意味がない。そう思っていた。
でも、そうじゃないのだろうか。
「……それでいいのか? もしオレがあいつのことを忘れても、あいつはいなくならないのか?」
そんなこと、ユキにきいてもわかるわけない。
結局、オレがオレ自身に答えを出さないといけないんだ。
そうわかっていても、脆弱になったオレの心は彼女に頼っていた。
「オレが前に進んでも、あいつは取り残されないのか?」
「うん」
「あいつのことを忘れても、オレはまたいつかちゃんと思い出せるか?」
「うん」
「オレの中で、あいつは生き続けられるのか?」
「うん」
オレが向けた言葉のすべてにユキは頷いてくれた。
「それは、幸せなことなのか?」
「それは、きっと幸せなことだよ」
人生が、救われていく気がした。
その日、オレは何か月かぶんの感情に呑まれた。
どれくらい泣いていたのかわからないし、どれくらい笑っていたのかわからない。
けれど、ユキに話したおかげで、早希との思い出が悲しいものばかりじゃないことを思い出せた。
今までだれにも話したことがなかったし、人前で涙を流すなんて普段なら恥ずかしくて絶対にできないことだけど。
雨が降っていて、夜で、このミュージアムには今、オレとユキしかいなかったから。
だから。その日あったことは全部二人だけの秘密にして、すべてうちあけたあと、オレは手を繋がれたまま幼い子供みたいに眠った。
明日からは少し、前を向いて生きられる気がした。
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