結婚行進曲
願いも虚しく、夜になってもまだ雨は降り続けていた。
オレは読み終わった小説を閉じて部屋を出る。
「…………」
華やかな音が漏れきこえていた。
三階のドアを開けてバルコニーから暗いホールの中を覗く。
灯りが届かない闇の中で、ユキがオルゴールの音色に耳を澄ませていた。
動いているのはディスクオルゴール。ロッホマンオリジナル172型。
「『結婚行進曲』」
「え?」
「その曲の名前」
それは死んだじいさんがよくきかせてくれていた曲であり、オレがいちばん好きな曲でもあった。だれもいないと思っていたホールでひとり、踊り出してしまうくらいには。
「いい曲だよね」
「月並みな感想だな」
「ねえ。ここにあるのって全部オルゴールなの?」
「まあ、広義の意味では」
「わたし、オルゴールって手のひらサイズのやつを言うのかと思ってた」
「原理はだいたい一緒さ」
「だけどここのはどれもぜんまいなんて見当たらないよ?」
「動かしてみろよ。教えてやるから」
オレは持っていた懐中電灯で入り口近くにあるハーヴェストを照らした。
ハーヴェストは縦横三メートルの自動演奏オルガンだ。まるで大きな絵本を開いたみたいな見た目をしていて、中央にはベルを持った二体の人形が飾られている。祭りやパーティーのときによく台車に乗せて持ち出されていたらしく、賑やかな曲を演奏するのに向いている楽器だ。
「ぜんまいの代わりに、裏側に大きなハンドルがあるだろ。それを回すだけでいい。簡単さ」
ハーヴェストの裏側に回ったユキが両手でハンドルを掴む。
「これ、けっこう重いんだけど」
「回してみろって」
およそ七十センチのハンドルをユキが回すと、ホールに「カッコウワルツ」が流れ出す。
その速度が、だんだんと遅くなっていく。
「ほらほら、ちんたらしてると曲が止まるぞ」
「ちょっとこれ、しんどい!」
文句を言いながらも、ユキは曲が終わるまでハンドルを回しきった。
「……もう、ムリ」
「じゃあ次、ヴィオリーナ」
懐中電灯で向かうべき方向を照らす。
座り込んでいたユキが渋々ヴィオリーナのほうへ歩いていく。
自動演奏ヴァイオリン。フォノリスト・ヴィオリーナ。
ピアノの上に三挺のヴァイオリンが固定されていて、周囲を囲う金属製の輪にヴァイオリンのほうから傾いて弾かれにいくユニークな楽器。
「わたし、ピアノなんてできないよ?」
「ヴァイオリンとピアノの間にブックがあるだろ?」
「ブックって?」
「オルゴール用に穴を空けた楽譜」
「どれ?」
「それ。の、横にひっかかってるスイッチみたいなのがあるだろ?」
「これ?」
「たぶんそれ」
「ちゃんと見てないでしょ?」
「いいからそれ、ズラしてみろって」
ユキがヴィオリーナのスイッチをズラす。
するとブックがヴィオリーナの中へと巻き込まれていき、ヴァイオリンの周りにある輪がゆっくりと回転を始める。
ピアノの鍵がひとりでに浮き沈みを繰り返し、ガタガタと揺れながら三挺のヴァイオリンが奏でるのはブラームスの「ハンガリー舞曲」。
「わあっ!」
踊るように動くヴァイオリンを見てユキがたのしそうな声をあげる。
「ピクサー映画みたい!」
「同感」
「あれはどうやって動かすの?」
そういってユキが指さしたのはケンペナー。正式名称、デカップ・ダンス・オルガン・ケンペナー。
高さおよそ五メートル、幅およそ八メートルという世界最大級のダンスオルガンであり、このホールが三階までふきぬけになっているのもこれがあるからだ。懐中電灯の明かりくらいではとても全容を照らすことができない。
ハーヴェストやヴィオリーナといった他の自動演奏楽器を見下ろすように立つ様は勇壮で、金色の塗装やカラフルな装飾品も相まって、かつてはこのミュージアムの目玉ともいえる自動演奏楽器だった。
「やり方は一緒さ。スイッチをズラしてやるのがぜんまいの代わり。中の歯車が回り出してブックを読み取りながら演奏を始める」
オレはブックのある場所を照らす。
ユキは自分からケンペナーを駆動させた。
重厚な音色と多彩な楽器の演奏によって紡がれるのはピノキオの「星に願いを」。
最初に動き出した鉄琴の一音が雨音を掻き消し、ホールを音色のベールで包み込む。
アコーディオンが弾み、太鼓が張り、トライアングルがきこえてシンバルが鳴る。
「目の前に音楽隊がいるみたい!」
「昔は楽団の代わりにダンスホールで活躍してたから」
「コウはなんでも知ってるんだね」
「ここにあるもののことはな」
「コウは昔からよくこのミュージアムにきてたの?」
「ああ」
「ひとりで?」
やがて、ケンペナーの演奏が終わった。
「……コウ?」
「ホールの固い床じゃ、ちゃんと眠れないだろ?」
オレは部屋にあった敷布団とブランケットをホールに落とす。
「コウのは?」
「オレのはちゃんと部屋にあるよ」
「やさしいんだね」
「べつに」
オレは枕を放り投げる。
パフンと布団の上に落ちた枕をユキはしばらく見つめていた。
そしてやがてそれを手に取ると、振りかぶり。
「えい」
三階に向かって投げ返してくる。
「……いらないのか?」
「返して」
「なんだよ」
オレはまた枕を落とす。
ユキはまたそれを投げ返してくる。
「意味がわからない」
「枕投げ」
「それは修学旅行でやるものだろ」
「やったことなくて」
「少なくとも貴重な展示物が残されているミュージアムでやることじゃない」
「やりたくない?」
「やりたくない」
「だって、雨が降ってるんだよ?」
「だからなんだよ?」
「雨が降ってて、夜で、ここには今、わたしたちしかいないんだよ?」
「…………はあ」
オレは枕を抱えたまま呆れて部屋に戻った。
踵を返すとき、悲しげに俯くユキが見えた。
「…………」
小説。マンガ。筆箱。メモ帳。空のペットボトル。コンビニの袋。それに枕。
部屋にあるものをひとしきり抱えて戻り、オレはそれらを片っ端からホールのユキに投げつける。
「ちょっ、なに⁉」
「枕投げだよ」
「余計なものが多いよ!」
「部屋、散らかっててさ」
「それ、言っとくけどただのポイ捨てだからね!」
カン、とユキの頭でペットボトルが跳ねるのを、置いたままにしていた懐中電灯が照らしていた。
「ははっ!」
額を抱えて笑っていると、飛んできた枕が顎にヒットした。
「ふふっ!」
ユキも腹を抱えてたのしそうに笑っていた。
――だから――。
オレたちは枕投げをした。
雨が降っていて、夜で、ここには自分たち以外にだれもいなかったから。
オルゴールに当てないようにだけ気をつけながら、そうしてしばらくの時間を過ごした。
門限なんてないオレたちにはたくさんの時間があった。
やがて互いに疲れきって、どちらからともなく降参を告げる。
ルールなんてない勝負が終わっても、オレもユキも、なぜだかずっと笑っていた。
こうしてだれかと心の底から笑い合うのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「じゃあ」
オレは枕の上にそっと懐中電灯を落としてユキに背中を向ける。
「散らかったゴミ、どうするの?」
「明日考えよう。今日はもう疲れた」
「コウ」
「なに?」
「ありがとね」
ユキの手から昇った水泡が、パチンと天井ではじけた。
それは彼女の命の一滴で。またひとつ、彼女からそれが失われたことを意味していた。
「なあ、ユキ」
「なに?」
「おまえ、いつか死ぬんだよな?」
数秒の沈黙が訪れた。
それからユキは顔を上げて、微笑みながら首を傾げた。
「どう思う?」
まるで、オレに未来を預けているみたいだった。
オレの答えひとつで、彼女の余命を決定づけてしまえるみたいな錯覚を覚えた。
「どうって…………」
オレには答えることができなかった。
「なんてね」
と、ユキはまた目を瞑って笑った。
「人はいつか死ぬよ。そりゃあね」
彼女の言葉が、胸に残った。
――人はいつか死ぬ。そんなことわかってる。
だからオレはユキに「いつか死ぬのか」ではなく「いつ死ぬのか」をきくべきだった。
部屋に戻り、枕みたいに投げ捨ててしまえない写真を眺めながら、そう思った。
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