孤独の雨

 十年ほど前に認められたその病は、症状の特徴から「人魚病」あるいは「マーメイドシック」と呼ばれるようになった。

 段階によってさまざまな症状が現れるらしいが、なぜ「人魚」なのかといえば、答えはあの水泡に帰結する。


 ――マーメイドシックを発症した人間は、いずれ人の形を保てなくなり、全身が水泡へと変わってしまう。


 それがおとぎ話に描かれた人魚が迎える最期のようだと、その名がつけられた。


「安心してね、うつったりしないから」


 スクリと立ち上がった彼女がその場でうんと伸びをする。

 青くなっていた瞳はいつの間にか黒色に戻っていた。


「わたし、ユキ。キミは?」

「…………荻原」

「の?」

「……コウ」

「どんな漢字?」

「孤独の孤に、雨って書いて、孤雨」

「かっこいい!」

「ウソだよ。漢字は当てられてない。カタカナ」

「なんだ、やっぱりかっこいいんじゃん」

「なにしてたのさ? こんなところで」


 学校からかなり離れた六甲山――その中腹にあるこのミュージアムは、学生がなにかの寄り道で立ち寄るような場所ではない。


「モラトリアムの謳歌」

「つまり?」

「現実逃避」

「つまり?」

「家出」

「なるほど」


 これは厄介な相手がきたなと思った。


「コウは?」

「いきなり呼び捨てなのか」

「いいじゃん、歳も近そうだし。っていうかコウ、学校は?」

「それをキミが――」

「ユキ」

「……ユキが言うのか」


 麓にあるコンビニを出たのがだいたい正午。そこからこのミュージアムまで歩いて一時間くらいだから、今頃学校は昼休みも終わって午後の授業が始まっている頃だろう。


「家出して学校いってたらただの登校になるでしょ」

「それはまあ、たしかに」

「で、コウは? どうしてこんな広いお屋敷にいるの?」


 テキトーにごまかそうか、少し迷った。

 でも、こっちだけ彼女の事情を知らされているという状況もバツが悪いと思い、結局素直に打ち明けることにした。


「オレも家出。家の居心地がよくなくて。ここに立てこもってる」

「じゃあ、わたしと一緒だ」

「まあ」

「どうしてここなの?」

「この館、死んだじいさんがやってたミュージアムでさ。昔はよく遊びにきてたんだよ。その名残かな。営業をやめたまま放置されててちょうどよかったのもある」

「だからたくさん飾られてるんだ、オルゴール」

「ユキは?」

「わたしは、上」


 立てた指を頭上へと向けるユキ。

 爪の先からまたひとつ、小さな水泡が飛び出した。


「この山の頂上にいきたくて」

「山頂か」

「夜景がとってもきれいなんでしょ?」

「どうだろうな」


 たしかに六甲山のてっぺんから望む街並みは観光スポットとしても有名で、それ目当てに山を登ってくる連中もいる。いわゆる百万ドルの夜景とかいうやつ。

 けれど実際に何度か登ってそれを見てみた感想はいつも「ふーん」って感じで、たいした感動はなかった。きれいだけど、きれいなだけで、心動かす「なにか」はない。

 少なくとも、オレにとってはその程度の価値しかないものだった。


「まあ、見ればわかると思うよ」

「うん」

「で、雨宿りってわけか」

「一応声かけてみたんだけど、だれもいないみたいだったから」

「悪いのか?」

「え?」

「その……病気」


 髪や瞳の色が変わるのはマーメイドシックの症状だ。

 変わっていくのは見た目だけじゃない。

 症状が進行すると人魚と同じく地面に足をついているだけで激痛を伴うようになり、やがてそれを呻く声すら出せないようになる。

 根本的な治療法はない。


「どう見える?」


 そう尋ねておいて、ユキはディスクオルゴールのほうへと歩いていった。

 オルゴールの上に並べてあった銀貨を投入し、くるりと身を翻す。

 そして流れ出したメロディに合わせて彼女はステップを踏んだ。


「たん、たん、たたんたんたんたん」


 スニーカーが床を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。

 ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、ケンペナーの前でポーズを決めるユキ。


「…………見てたな⁉」

「しかとこの目で」


 最悪だった。トイレを覗かれたような気分だった。


「いやー、言わないほうがいいかなと思って寝たフリしてたんだけど。オルゴールの目覚ましが鳴ったら人は起きるよ、さすがに」


 両手を挙げたままユキは笑う。

 少なくとも、まだ見た目の変化以外にたいした症状は出ていないらしい。


「怒った?」

「……べつに」

「よかった」


 彼女の陽気な声は静かなホールによく響いていた。


「ここにいるのって、コウひとりだけ?」

「そりゃそうさ」

「じゃあ、少しの間泊めてくれないかな?」

「泊めるって、ユキを?」

「おねがい。雨が上がるまででいいから」


 パン、と頭の上で手を合わせるユキ。


「……」


 少しの間、考えた。彼女のこととか、自分のこととか、いろいろ。

 たぶん互いに、いつまでもここにいるのは間違っていることなのだと思う。

 でもまあ、この雨が上がるまで――それくらいなら、答えを先延ばしにしてもいいだろう。そう思ったから、オレは頷いた。


「べつにオレの家ってわけじゃないし、好きにすればいい」

「ホント⁉」


 ユキはうれしそうに両手の下からオレのことを覗いた。

 じきに泡沫へと変わる人間の表情には思えなかった。

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