水泡にキス

零真似

雨宿りのオルゴール

それはまるで人魚のように

 遅れてきた六月の雨が、夏を追い越したみたいだった。

 平年より早い梅雨明けを報じていたラジオのキャスターを恨みながら、オレは急いで山の中腹にあるオルゴールミュージアムへと戻った。


 三角屋根の下で濡れた髪を払い、コンビニ袋の水滴を落として、ドアを開ける。

 古いヒノキ床の上に数日分の食料を放り、軋む階段を上って二階のホールへと向かう。

 展示されているオルゴールを通り過ぎ、オレは今日もミュージアムに立てこもった。


「ふう」


 吐いた息が高い天井に昇って反響する。

 周囲には等身よりも大きなオルゴールたちがひっそりと佇んでいる。

 屋敷の外で降る雨音が、まるでこの世界のすべてみたいにきこえていた。


 オレは銀貨を一枚手に取って、ディスクオルゴールの中に放り込んだ。

 木製の棚の中で銀色の円盤が回り、華やかな音色が再生されていく。

 暗がりの部屋が、すこしだけ明るくなったような気がした。


「たん、たん、たたんたんたんたん」


 リズムに合わせてステップを踏む。

 スニーカーが床を叩いて小気味いい音を鳴らしていく。

 ハーヴェストを回り、ヴィオリーナを撫で、ケンペナーの前でポーズを決める。

 だれからも忘れ去られた館に立ち並ぶオルゴールが観客の代わりだった。


 コン、と。最後まで回転したディスクが止まって、演奏が終わった。

 また、静かな雨音ばかりがきこえてくるようになる。

 慣れ親しんだ虚しさが込み上げてきて、オレは銀貨を回収しに向かった。

 その途中、並んだオルゴールの間で、妙なものをみつけた。


「……?」


 人が、たおれていた。

 女の子だった。


 雨に濡れた身体を丸めながら、まるで隠れて眠るようにして、彼女はそこに寝そべっていた。

 雨音だけだった世界に、か細い寝息がこぼれ始めた。


「……だれ?」


 恐る恐る尋ねてみるが返事はない。

 彼女が着ている制服はオレと同じ学校のものだった。

 学年章を見るに、オレと同じ二年らしい。

 けれどオレは彼女に見覚えがなかった。


「……」


 作り物みたいにきれいな顔をしていた。

 雨粒を弾く長い黒髪――その先端は赤く染まっていて、グラデーションがよく馴染んでいた。

 まるで物語の中から出てきたようだと思った。


「……んー」


 敷いていた腕を伸ばして、彼女は瞑っていた目を擦る。

 そして小さなあくびをひとつして、薄闇の中で光る青い瞳にオレを映した。


「やあ」

「…………えっ?」


 彼女の手から、シャボン玉みたいな水泡がひとつ出て、天井へと昇っていく。

 水泡は天井まで飛んで、こわれて消えた。


「…………マーメイドシック?」


 つい、思い当たったことを口にしてしまう。

 コクリと彼女は頷いて、それから目を瞑って笑った。


「人魚姫って呼んでくれてもいいよ?」


 それが彼女――ユキが、初めてオレに言った冗談だった。

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