驚く

 アップルパイはまあ見た目通りの味というできばえだったのだけど、琴引さんは何やら感激しながらもう2切れめに手を伸ばしている。

 とてもカレーを食べた後とは思えない食べっぷりだ。

「むっちゃうまいっすわ」

「なんか恐縮です。ひと晩泊めていただいたお礼にしては……」

「ミラクル感激っすわ」

 琴引さんは本当に少しテンションが上がり、喋り方がカジュアルになっている。

 わたしの方は、恋心を脳内でしっかり言語化して意識してしまったものだから、あまりその目を見ることができない。

 琴引さんのコーヒーをブラックのまますすり、気持ちを落ち着けようとした。

「木南さんって料理が趣味なんですか?」

「いや全然。ひとり暮らし歴が長い分、それなりにほどほどにって感じです」

「ご出身どちらなんすか」

 珍しく質問を畳みかける琴引さんの口元に、パイ生地のかすが付いている。そんなことにもきゅんとなってしまう。

 指を伸ばして取ってあげたら、どうなるのだろう。

「秋田です」

「ああ、納得。秋田美人か」

 わたしは反応に困って曖昧に微笑んだ。

 秋田美人。出身を言うと半分くらいのひとがその言葉を口にするけれど、その実どのくらいのひとが本当に美を認めて言うのだろう。

 条件反射で社交辞令的に言われるのはあまりというか、まったく嬉しくはない。

 コーヒーをすすり、パイにフォークを刺しては口に運びながら、お互いの地元についてネタを交換するように話した。

 琴引さんは東北にはあまり縁がなかったという。彼が横浜出身であることはブログのプロフィール欄を読んで知っていたけれど、初めて聞いたふりをした。

 琴引さんは途中からApple Musicで音楽を流し始めた。少し前に流行ったスウェディッシュ・ポップだ。

 もう少しここにいていいって意味かな。わたしは勝手に解釈してひっそり喜ぶ。


「――でも、趣味ってわけでもないのにこんなにうまく作れるもんなんすね、アップルパイとか」

 琴引さんは3切れ完食したところでさすがにストップした。ウェットティッシュの筒を引き寄せて口元を拭いながら、無防備な微笑みを投げかける。

 やめて。これ以上ときめかせないで。ほとんど物理的な胸の痛みを覚えてわたしは心の中で叫ぶ。

「レシピ通りにやれば誰でも作れますよ」

 照れくささのあまり、どこかいじけたような愛想のない言いかたになってしまった。どうしてこう、自分はかわいくないのだろうか。

「なんかさ、男のくせにドリーミーって言われるかもしれないけど」

 彼はいったん言葉を切り、コーヒーをごくりと飲みくだした。喉仏が上下するのをわたしはそっと見つめる。

「俺『赤毛のアン』大好きで」

「え、わたしも」

 わたしは顔を上げた。

「まじっすか。どこまで読みました?」

「『アンの夢の家』まで……」

 アンが無事にギルバートと結ばれて、残念ながら第一子は死産だったものの、その後元気な男の子が生まれたところまで見届けたのだった。

「あはは。『炉辺荘のアン』とかおすすめですよ、30代になると」

「もしかして全巻読んでます?」

「うん」

「すご……」

 事もなげにうなずく琴引さんの読書量は、やはり半端ではないのだろう。

「でさ、あのシリーズってとにかくやたらと手作り菓子が出てくるじゃないですか」

「ああ、パイとかタルトとかクッキーとか……」

「そうそう。もうさ、『あーーーっ!』ってなるよね、食いたくなって。文学におけるスイーツテロですよあれは」

 琴引さんは鼻の頭に少し皺を寄せて笑う。初めて見る顔だ。

 激しく同意しながら、わたしは彼の表情の幅が大きくなっていることに気づいてさらにどきどきする。

「だから嬉しかったんですよ、手作りのアップルパイなんて。発狂しそうなくらい最of高です」

「最of高ですか」

「最of高です」

 ――ん?

 もしかしてこれはちょっと、いい感じなんじゃないだろうか、わたしたち。

 フォークを放りだして直角に向かい合った琴引さんにしなだれかかりたい衝動を、わたしは懸命にこらえた。

 まるでコーヒーのカフェインで酔ったかのように、琴引さんとの距離を詰めたくて仕方なくなっていた。


「じゃ、普段お休みとかは何してるんですか」

 心の中で盛り上がるわたしに気づく様子もなく、琴引さんはコーヒーのお代わりをわたしと自分のマグにどぼどぼ注ぎながらたずねる。

「んー、写真撮りに行ったりとかですかね」

「写真ですか」

「はい、昔写真部だったんで。高校の頃」

「へええ」

 心から意外そうに琴引さんは目を見開いた。

「どんなの撮るんすか」

「ありきたりだけど、野鳥とか花とか、あと水のある風景が好きで……」

「へえええ、一眼レフですか」

「一眼レフですね。まあ最近はデジタル一眼ですけど」

「どんなの撮るんですか」

「あ、スマホに……」

 こんなに食いついてくれるとは予想していなかったわたしは、どぎまぎしながらハンドバッグを引き寄せた。

 一眼レフで撮った写真のデータはパソコンで管理しているけれど、iPhoneのフォルダにも一部保存してある。

 とっておきの、あのカワセミの写真を見せようと思った。あれを見たら、どんな顔をするのだろうか――。

「……あれっ」

 取りだしたiPhoneを見て、わたしは不在着信があったことに気づいた。

 そして、その名前を見て目を疑った。


 久米くめ海星かいせい

 初体験の、あの男だった。

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