気づく
琴引さんの部屋は、前回訪れたときよりずっとすっきりして見えた。
圧倒的にスペースを使っていた本たちの量が減っている。
「でかい本棚買ったんだ」
わたしの視線の意味に気づいたのか、カレー皿を運んできた琴引さんは苦笑いのようなものを浮かべて言った。
「そっちの部屋に本棚増やして、収めるものは収めて、要らない分は売っちゃった」
「え、BOOK OFFとかにですか?」
「そうそう、BOOK OFF」
言いながら、琴引さんはこの間と同じ位置に座るわたしの前にごとんとカレー皿を置いた。自分の分も。
いわゆる日本のカレーらしいカレーだ。急激に空腹を意識する。
「献本が圧倒的に多かったからね」
「ケンポン?」
脳内で漢字変換できず、訊き返してしまう。
「うん、寄贈されてくる本。レビューを書いて広めてほしいっていう目的で、作者本人とか出版社とかから」
「ああ……なるほど」
わたしは深く理解する。物書きの間ではそのような文化があると聞いたことがある。
「それって、琴引さんに発信力があるって認識されているからですよね」
手渡されたスプーンを受け取りながらわたしが言うと、琴引さんの目がひと回り大きくなった気がした。
あ、この顔。
自尊心を刺激されたときの、強いて言えば喜びに近い表情だ。
表情を大きく変えない琴引さんの微細な変化を、わたしは少しずつ読み取るようになっていた。
カレーはおいしかった。基本に忠実な味がした。
自分の場合、ついつい味に変化を求めてトマト缶や野菜ジュース、あるいは牛乳などを入れて作ってしまうので、シンプルなルーの味のするカレーを食べたのは久しぶりな気がした。
「101号室の
「ああ、例のカレー屋さんの」
「あそこの部屋から漂うカレー臭ってテロに近いっすよね。無条件にカレーが食いたくなっちゃう」
「わかります」
和やかに会話しながらふと、よそのお宅で手も除菌せずに食事している自分に気づいた。
慌ててハンドバッグを引き寄せようとして、自分が今、その必要も感じていないことに唐突に気がついた。
わたし、いろいろゆるくなってる。
琴引さんと同じ空間にいるとなんだか、ゆるい自分でいられるような。
「どうし……、あっ」
琴引さんはまたわたしの挙動の意味をはかったような表情をすると、身体をねじ曲げてソファーの脇から何かを引き寄せてちゃぶ台の上に置いた。
除菌ウェットティッシュの筒だった。
「おしぼり用意してなかった。すみません」
「ど……」
どうしてわかったんですか? 「ウイルス対応」と書かれた除菌ティッシュの筒を見ながら、わたしは嬉しさのあまり息がつまりそうになる。
どうしてこのひとは、こんなにもわたしを安心させてくれるのだろう。
「ん?」
「ありがとうございます」
心の動きを悟られないように、わたしはそっと一枚を引き抜いて手を拭った。
カレー皿を洗うのを買って出ると、琴引さんはその横で、またコーヒーを挽いてくれた。
ごごごごごごごごごごごごごごごごご。
「コーヒー豆って、どこで買ってるんですか?」
水切りかごにグラスを伏せながらたずねた。
「んー、前はわざわざ
「へええ」
「最近使ってるのはいただきものなんだけど」
砕かれた豆たちがミルの奥へとすっかり吸いこまれてゆくのを、わたしは琴引さんと一緒に見守った。
泊めてもらった翌朝のコーヒーを思いだす。
一夜を共にした恋人たちが飲むモーニングコーヒーみたいだった。そう思ったら、耳たぶが熱くなった。
――好き。
差しこむように思った。
このひとが、好き。
誰かに対してこんなに心が震えるのは初めてかもしれない。胸の奥にある湖の水面が揺れている。
わたしは欲望を抱いているのだと、このひとを求めているのだと、はっきりと自覚した。
そのとき自分のiPhoneが懐かしい人間からの着信を知らせていることに、気づきもしないままで。
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