訪う
きゃーーーーーーーっ。
部屋の中に戻ったわたしは、息だけの叫びを漏らした。
この展開は、予測していなかった。
こんなに早く、琴引さんのお部屋にまたお伺いすることになるなんて。
けっしてパイが焼ける熱気のせいではない頬のほてりを、わたしはぺしぺしと叩いた。
落ち着け。落ち着け。……無理。
ベランダでのやりとりを反芻しながら、ドレッサーの前に座って薄化粧を施した。
じゃあ、焼き上がったら行きます。そう答える自分の声が、他人のもののように聞こえた。
いつのまにこんなにわたしは大胆になったのだろう。
潔癖症のくせに。ろくな恋愛経験もないくせに。
これでアップルパイが失敗したらどうなるのだろうとはらはらしたけれど、祈るように取り出したそれは上質な光沢とほどよい焦げ目と豊かな香りとを併せ持つ仕上がりとなっていた。
胸をなでおろしながら、材料と一緒に買っておいたケーキ箱にそっとそれを収める。
さあ、着替えないと。
エプロンの紐を解き、部屋着にしているユニクロのフリースワンピースも脱いで、まとめて洗濯機に放りこんだ。
少し迷って、色気のない長袖のインナーも脱ぎ、ブラとパンティーだけになる。その姿を、なんとなく浴室の鏡に映した。
何を考えているのだろう。
わたしは……琴引さんの目にこの身体が触れる日が来るのだろうかと、そしてそれは今日だったりはしないのだろうかと考えている。
さすがにそれは、急展開すぎる。わかっているのに、わたしは自分の肌つやまでも確認してしまう。
さんざん考えた末、千鳥格子のモノクロのワンピースに黒いタイツを合わせた。
髪を巻こうか迷ったけれど、やりすぎかと思ってやめる。その代わり、丁寧にブローした。
隣りの部屋に行くのだからコートは要らないけれど、赤いマフラーだけふわっと巻きつけるとバランスが良くなった。
パイの箱と小ぶりのハンドバッグを持ち、パンプスを履いて部屋を出る。ミスターミニットでマドラスチェック柄にコーティングしてもらった鍵で施錠する。
ふう。
ひとつ深呼吸して、わたしは201号室のチャイムを鳴らした。無意識に髪を整える。
女って、意識してる男の前では声がトローッと高くなって、やたらと髪を直したりするんだよね。以前、美冬が言っていた言葉が蘇る。
「はーい」
インターフォンを使わずに、琴引さんは直接ドアを開けた。
さっき見たよりも寝癖が落ち着いている。もしかして彼もわたしのために身だしなみを整えてくれたのかと思うと胸の奥が疼いた。
「どもどもー」
こちらの胸中も知らずに、琴引さんはいつものように、けっして大げさではない笑顔を浮かべて迎え入れる。そのナチュラルな様子からは、わたしのことを少しは意識してくれているのかどうか、まったく読み取ることができない。
「入って入って。散らかってますけど」
ドアがさらに大きく開かれて、この前とは違うアロマ系の香りに混じってカレーのようなにおいがした。
「あ、お邪魔します」
一歩玄関に入ると、琴引さんがわたしの肩越しにドアを閉め、内側から施錠した。
どきん。
鼓動が早くなる。心音が聞こえてしまうのではと思うくらいに。
「あ」
琴引さんが急に真顔で言った。
「あ、あの、いきなりお誘いしちゃったけどあの、変な意味とかないですからね」
「え、あ」
いきなり直球で牽制されたような気がしてわたしは戸惑う。さっき自分が抱いた淡い予感を見透かされたような気まずさ。
「わかってます、大丈夫です」
おかしな笑顔になりながらわたしは答える。安心したような、どこかがっかりしたような、複雑な気持ちで。
「でも一応……開けときますんで」
琴引さんは、鍵を縦向きに戻して開錠した。
ああ、どちらかと言えば、わたしへの気遣いか。唐突に理解する。
大丈夫なのに。逃げだしたくなる状況なんて、あるわけないのに。
「あの、これ。遅くなりましたけどお礼です」
変な空気を断ち切るようにケーキ箱を琴引さんに手渡し、あらためて頭を下げた。
「あ、いただきます」
琴引さんも頭を下げた。距離が近すぎて、頭同士がぶつかるかと思った。かすかにミント系のさわやかな香りがした。
「
「や、まだです」
緊張しすぎて空腹を感じるどころではなかった。一緒にアップルパイを食べるくらいでちょうどいいと思っていた。
「カレー作ったんすよ。お礼のお礼みたいになっちゃいますけど」
琴引さんはまたさりげない笑みを浮かべ、わたしを部屋の中へと促した。
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