焼く
琴引さんは、バイクで通勤している。
ばったり会うとき、ヘルメットを小脇に抱えていることがある。泊めてもらったあの日に居間で見た、銀色のヘルメット。
「フレグランス作ってるから、どうしても髪とか身体に匂いが染みついちゃうんすよね。ほんとは電車で通いたいけど、匂いが迷惑になっちゃうから」
あの夜、だいぶ打ち解けてお互いの仕事の話になったとき、琴引さんはそう言っていた。雨の日はやむなく電車に乗り、終業後は会社のシャワーで全身を流して帰るのだと。
実際、琴引さんと対峙した瞬間いつもふわりとアロマのような香りが漂う。
本人が思っているほど嫌な匂いじゃないのに。
――むしろ、もっと嗅いでみたいのに。近くで。
そんなことを思いながら、土曜の午前いっぱいをアップルパイ作りに費やした。
いっとき料理に凝るのにはまった時期があり、お菓子作りにもひととおり手を出したけれど、趣味と呼べるほどには至らなかった。
それに食べてくれるひとのいない虚しさやコスパの悪さを思うと、買ったほうが合理的という結論に達してしまっていた。
極めておけばよかった。
後悔しながら林檎を煮詰めて灰汁を取り、カスタードクリームを作りながらオーブンを余熱し、表面に編みこむためのパイシートを短冊状にカットする。
アップルパイは本当に面倒くさい。
iPhoneでたびたびレシピを確認してはその手を洗って拭いて除菌して、を繰り返しながら、ようやくオーブンに入れてセットしたときは大げさなくらい疲れていた。
さて、琴引さんは在宅だろうか。
そう思ってベランダからそっと隣りをのぞくと、几帳面に干された洗濯物が風にはためいていた。
わたしが朝一で干したときにはまだなかったはずだから……と考えていると、突然レースカーテンに人影がゆらめいた。
慌てて顔を引っこめ、自分の洗濯物を干すふりをする。がらがらとガラス戸が開かれる音。心臓がばくばくする。
「……あれ」
琴引さんがこちらの気配に気づいたようだ。わたしは観念して、ベランダの仕切り板の向こうにもう一度歩み寄った。上下黒の部屋着姿の琴引さんがいた。髪には寝癖がついていて、そしてやっぱりほんのりといい香りがした。
「あ、こんにちは」
何が「あ」だ。我ながらしらじらしくて呆れる。
「なんか、むっちゃいい匂いしません?」
ベランダ越しに隣人と会話するなんて初めてのことだった。
「あ、匂いします?」
「しますします」
「上の階の方に林檎をいただいて、それでアップルパイ作ってるんですけど、琴引さんはアップルパイお好きですか」
好機をとらえて、わたしはひと息に言った。
琴引さんの瞳が1.5倍くらい大きくなった気がした。
「むっちゃ好きです」
好きです。
お菓子に向けられた言葉だというのに、わたしはその響きにたまゆら、酔いしれた。
「よかった」
どきどきする。でも、これはいけるという確かな感触があった。
「遅くなったんですけど、泊めていただいたお礼に焼いたんです。よかったら、あの……」
「まじですか」
琴引さんは子どものように嬉しそうな顔をした。
そして、
「え、じゃあ……よかったらうちで一緒に食べません?」
と言った。
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