現れる
「げっ」
わたしはあまりにも無防備な反応をした。
どうして今頃? しかもこんなタイミングで。意味がわからない。
「どうしたの」
琴引さんが顔を寄せてきた。
わっ、近い。ミントの香りがふわりと鼻腔に飛びこんでくるくらい。
でも今、この名前は死んでも見られたくない気がした。
「いや、なんか……写真部時代の仲間から電話があったみたいで」
「へえ」
「……わっ」
画面を見つめていたら、またiPhoneが着信を知らせて振動し始めた。
"着信 久米海星"
じーん。じーん。じーん。じーん。
「出たら? 昔の仲間なんでしょ」
琴引さんは何の含みもない声で言った。
「でも……何年も連絡とってなかったひとで……」
「だったらなおさら何かあったのかもしれないじゃん」
わたしはとっさに脳を回転させる。ここで変に遠慮するのもワケありっぽい雰囲気が出てしまいそうだ。
「じゃあ……すみません、ちょっと」
観念してわたしは言った。
どこか――キッチンにでも移動して通話させてもらおうと思ったけれど、それより早く琴引さんがすっと立ち上がり、寝室兼書斎へ行ってしまった。
ぱたりとドアが閉じられる音を聞きながら、心の準備も整わないままに、わたしは通話ボタンを押した。
「……はい」
「おい、8年も無視してんじゃねーよ」
懐かしい声が耳に飛びこんできた。
駅北口にあるドトールコーヒーで、久米と向かい合った。
土曜日のカフェは地元の若者でいっぱいで、わたしたちは隣りとほとんど距離のないテーブルに身を置いていた。
カレーとアップルパイでお腹いっぱいな上に、コーヒーだって淹れたてのおいしいやつを飲んだばかりだというのに、いったい何故にわたしはこんなところで豆乳ティーなどすすっているのだろうか。しかも、こんな相手と。
「清瀬の駅前にいるんだ、俺。おまえ今、この辺に住んでんだろ」
一歩間違えばストーカーのようなことを電話で久米に言われ、慌てて琴引さんのお宅を辞していったん自宅に戻り、コートを引っつかんでばたばたと出てきたのだ。
「なんで知ってたの、あたしの住んでるとこ」
軽く久米をにらんだ。
嫌いな男じゃない。それどころか、初めてを捧げてもいいと思えた相手だ。あのことがなかったにしても、誰より気の合うクラブメイトだった。
だからこそ、互いに恋だと錯覚する前に離れたのに。大切な思い出のままにしたかったのに。どうして今更現れたりするのか――。
「宮田に聞いたんだ」
彼の目の前に置かれたコーヒーとそっくりな色に髪を染めた久米は、同じ写真部だった別の男子の名前を出した。
「おまえ、夏にクラス会行ったんだろ」
そうか、
宮田は写真部員でもあると同時に、わたしの高3時のクラスメイトでもあった。
今年のお盆に帰省して参加したクラス会で、2次会でなんとなく隣りの席になり、互いの近況を話しこんだのだ。そのとき彼から久米が転職して都内にいるという話も聞いたけれど、さほど気にも留めずに受け流していた。
「連絡取り合ってたんだね、宮田と」
「今はSNSというものがありますからね」
秋頃にFacebookで「友達」になり、Messengerでやりとりをした際に、わたしの話になったという。
「あいつ、紗子のこと好きだったからね」
コーヒーを口に運びながら、久米はさらりと言う。
それを言われると、少し弱い。高3のとき宮田からひそかに向けられていた好意には、実はずっと気づいていた。
潔癖症のくせに、わたしは高校時代、男を切らしたことがなかった。基本的に常に彼氏がいて、でもみんなプラトニックなまま終わった。
だからこそ、久米とのことは特別だった。本当に。
およそ8年半ぶりに再会した男の声や仕草は、あの暗室の合皮のソファにむきだしの尻がひんやりと触れる感覚までをも思い起こさせ、わたしはおおいに困惑していた。
「で、なんであんたが清瀬にいるのさ」
感傷に引きずられる前に、話を切り替えた。
わたしはさっきまで、好きなひとといい雰囲気でお茶していたのだ。彼の部屋で、ふたりきりで。
琴引さんの髪や肌から香るミントの香りを思いだし、胸が甘苦しくなった。
ああ、あのままいたらもしかしたら、うっかり唇が触れ合うようなことになっていた可能性だってあるかもしれないのに。あの温かい亜空間に戻りたい。
結局わたしはまだ、琴引さんの電話番号もLINEアカウントも知らないままだ。
「それなんだけどさ」
初めてを捧げ合った男は、突然額の前で拝むように手を合わせた。
「おまえんとこ、泊めてくんね? しばらく」
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文庫化にあたり、カクヨム版の公開はここまでといたします。
続きは書籍にてお楽しみくださいませ。
単行本:KADOKAWA(品切れ中)
文庫:創元文芸文庫(2023年5月刊行)
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