第2章

気にする

「ああ、憂鬱」

 外口そとぐちさんは今日一日、そればっかりだ。

「痛いんだよなー、痛いんだよなー」

「だったらキャンセルしたらいいじゃないですか」

 もんさんがばっさり斬るように言うと、

「だってえ、もう始めちゃったんだもん」

 外口さんは子どものように口を尖らせた。押山おしやまくんがコーヒーを飲みながらくすくす笑う。

 門さんがさらに何か言おうとしたとき、入電があった。みんな、さっとビジネスモードに切り替わって対応する。


 外口さんの右の上腕部には、タトゥーが入っている。

 今は長袖で隠れているけれど、夏にブラウスの袖をめくって見せてくれたことがある。外口さんの下の名前である「すみれ」にちなんで、小さなすみれの花が彫られていた。

 最近そのタトゥーを消すことを決意してサロンに通い始めたけれど、その施術が痛くて毎度気が重いらしい。彼女いわく「輪ゴムでパチンとはじかれるような痛み」が肌に走るそうなのだ。

「桁ひとつ違うんだよ、入れるときと」

 商品機能の問い合わせの電話対応が終わるなり、外口さんはそう言った。

「え、何がですか?」

 端末に入力しながらたずねると、

「お、か、ね」

 外口さんは一音ずつ区切りながら答えた。タトゥーの除去費用のことか。

「ああ……」

「ひと桁違うって、結構な額ですよね」

 門さんもまた話に加わる。自称ナチュラル派で化粧すらいっさいせず、いつも黒髪を首の後ろで結わえただけの彼女は、コスメや香水なしでは生きていけない外口さんとは対極の人種だ。

「そうなの。入れたときが3万だから、その10倍よ」

 ひっ、とわたしは思わず息を飲み、口を押さえた。

「さんじゅうまん……?」

「まじっすか」

 作業をしていた押山くんも顔を上げた。この中ではいちばん年下で、わたしたちの弟的存在だ。

「イエス」

 我が意を得たりと外口さんはうなずいた。

「何回かかるかわかんないけど、そのくらいは余裕でいきそう」

「30万あったら、牛丼何杯食えるかな」

「どうして男ってなんでも牛丼に換算するの? 『海外旅行できちゃうな』とかじゃなくて」

「そういう生き物なんです」

 門さんと押山くんのやりとりに笑ってしまう。押山くんは本当に電卓を弾き始めている。

「うお、400円換算で750杯も食える!」

「そもそもどうしてタトゥーなんて入れたんですか」

 門さんは押山くんをさらりと無視して外口さんを見る。

「当時の彼氏とおそろいで入れたんだ。ってか愛の証明のために入れてもらったの、根性焼きみたいなもんね。向こうも今頃消してるんじゃないかなあ」

 一瞬、空気が静まる。忘れていたが、そういえば外口さんは元ヤンだった。

「若気の至りって怖いよねー」

 外口さんはキーボードを叩きながら、他人事のように言った。


 アパートに帰り着くと、エントランスにカレーの匂いが漂っていた。

 101号室に住んでいるおじさんが仕込んでいるカレーだ。


 琴引ことびきさんに泊めてもらった一夜をきっかけに、わたしはアパートたまゆらの居住者に少しずつ興味を持つようになった。

 101号室のおじさんは、キッチンカーでエスニックカレーを出店しているらしい。

 ここから都心方面にワゴンを走らせ、中小企業のひしめくエリアで昼時のビジネスマンをターゲットにカレーを売っているそうだ。おじさんと既に顔馴染みであるという琴引さんが、先日エントランスで会ったときに話してくれた。

 わたしの右隣の203号室には、長いことひとり暮らしをしていた初老の女性がいたけれど、最近突然引っ越してしまった。辻さんというのだと、最後の日に初めて知った。

 わたしの部屋の真上にあたる302号室には、母子家庭の親子が住んでいる。母親が2歳くらいの男の子を連れているのをたまに見かける。

 その子がどたどた走り回る音やボールか何かを床に叩きつける音が、時折天井から聞こえる。特に気になるほどではなかったけれど、先日突然「いつもうるさくてすみません」とメリーチョコレートをひと袋持ってお詫びに来た。


 部屋の数だけ生活があり、居住者の数だけ人生がある。

 そして――

 わたしは、琴引さんのことが気になっている。


 あの日から、ちょっとした外出時も身なりを意識するようになったし、生活音やベランダに干す洗濯物にも気を配るようになった。

 階段や部屋の前で琴引さんにばったり会ったときは、挨拶をする仲になった。ひと言ふた言、雑談をすることもある。

 ほとんど表情を変えない琴引さんと違って、わたしはときめきが顔に出てしまわないよういつも必死だ。

 寒くない休日、ベランダに出てココアを飲む習慣がわたしにはあるけれど、隣りの気配に耳を済ませても何もない。きっと室内で本を読み、原稿を書いていることがほとんどなのだろう。

 恋人はいないのかな。最近のわたしは、そんなことまで考える。

 琴引さんが、気になる。

 どうしても。

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