笑う

 iPhoneのアラームで目を覚ました。午前5時半。

 いつもの天井――ではあるけれど、自分の部屋じゃない。ベッドも部屋の匂いも、何もかも違う。

 瞬時に昨夜の記憶が蘇り、がばりと跳ね起きた。

 枕やシーツに落ちていた髪の毛を拾ってベッドを整え、居間で眠る琴引さんを意識しながらトイレや洗面所を借りて身支度を整える。

 少し迷って、キッチンの水切りかごから昨夜使わせてもらった湯のみを借り、洗面所に戻ってうがいをした。

 お借りします、いや少々ちょうだいします、と心の中で言いながらうがい薬をワンプッシュ使わせてもらう。

 自己最短記録で出社準備ができたかもしれない。着替えの必要がないから当たり前かもしれないけれど。


 部屋を出るタイミングを考えながらキッチンに戻って湯のみを洗っていると、居間とキッチンを隔てるガラス戸がからから開いた。

 振り向くと、琴引さんがソファーから身を起こしていた。

「あ、コーヒー淹れますよ」

 寝起きの不明瞭な声で琴引さんは言った。目が半分しか開いていない。髪には寝癖がついている。

 かわいい、と思ってしまった。そんなこと口に出したら失礼だろうけど。

「あ、おはようございます。ベッドお借りしちゃってすみま……」

「コーヒー好きですか」

 若干寝ぼけているらしい。ぼんやりした無表情と厚意ある言葉のちぐはぐさがツボに入って、わたしはとうとう笑ってしまった。


 キッチンラックにミル挽きコーヒーメーカーがあるのは昨夜見て知っていた。

 琴引さんはソファーから布団類をどけてわたしを座らせておくと、身支度を済ませ、コーヒー豆を投入して挽き始めた。

 ごごごごごごごごご。

 豆が砕かれる音に混じって、芳醇な香りが漂ってくる。

 わたしは琴引さんがつけておいてくれたNHKのニュースを観ていた。でも内容はほとんど頭に入ってこない。

 琴引さんが、気になる。

 しばらくして、琴引さんがコーヒーだけでなく朝食まで運んできてくれた。目玉焼きを乗せた厚切りトースト。トマトも添えてある。

「あの、あまりにもお世話になっちゃって、わたし……」

「平気っすよ。あ、ってか何も訊かずに用意しちゃった。ご飯派ですか? って、今更か」

 琴引さんは自分にぶつぶつつっこみを入れながらキッチンと居間を行き来した。カトラリーやコーヒーシュガーまでそろえ、最後に牛乳をパックごとどんと置いて、ちゃぶ台の横に腰を下ろした。

 わたしもソファーから床に降りて座った。90度に隣り合う形になった。

「自分、和食好きなんですけど、米ってひとり暮らしだとちょっと不経済っすよね。あ、どうぞ」

 トーストにかぶりつきながら琴引さんは言った。お礼を述べつつわたしもコーヒーに口をつける。

「……おいしい」

 普段は甘いココアが好きなわたしでも、そのおいしさがわかる気がした。無駄な酸味がない。

「ミルで挽くとこんなにおいしいんですね、コーヒーって」

「挽きたてだしね」

「目玉焼きトースト、うちもよくやります。『ラピュタトースト』って呼んでます」

 そう言うと、琴引さんは「おっ」という顔でこちらを見た。

「俺も『ラピュタパン』とか『パズーパン』って呼んでる、自分の中で」

「ふふふ。琴引さんって」

 コーヒーで頭がきりりと冴えたせいか、饒舌になっていた。

「ん?」

「生活をおろそかにしないひとですね」

 口にしたあとで自分は何を言っているのかと思ったけれど、琴引さんはその涼しい顔に初めて照れ笑いのようなものをふわりと浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る