泊まる
緊張しまくりながらバスルームを借りた。
部屋の手入れ具合やインテリアの趣味、こうして突然他人を泊めることができるほどの余裕からして、琴引さんはハイセンスで高水準な暮らしをしているひとに思えた。
だから、浴室の壁に目立たない程度の黒カビがうっすらあるのを見つけたとき、人間くささを感じてむしろ少しほっとした。
シャワーヘッドは備えつけのものとは別のものに交換してあるようで、ホースと色が微妙に異なっている。うちのシャワーより水滴が微妙に細かい気がする。
シャンプーやボディーソープは、セブンイレブンのプライベートブランドのものに統一されていた。お借りします、と口の中でつぶやきながら、素手で身体をごしごし洗う。
湯の中に遠慮がちに身を沈める。いつもならワニクリップで留めて入る髪の毛が、水面に放射線状に広がる。
お風呂から上がったら、お湯は抜いた方がいいのだろうか。
わたしは残り湯を洗濯に使うことがあるけれど、そんな貧乏くさいことはしないひとだろうか。
もしするにしても、わたしという他人の入ったお湯なんて使わないよな。
ひとめぐり考えて、上がるときには栓を抜いた。衣類を身につけてスキンケアを終えたあと、浴室に立てかけてあったブラシと洗剤で丁寧にバスタブを洗った。
下着を替えられないのは辛いし、いきなりすっぴんを晒すことにも抵抗があるけれど、それでも琴引さんに拾ってもらえてよかった。つくづく思う。
不潔な同性より清潔な異性の部屋の方がずっといい。もちろん、他の要素で危険や不安がないことが前提だけれど。
このお礼は何がいいだろう。甘いものは好きだろうか。
そんなことを考えながら脱衣所を出ると、琴引さんは寝室で何やら作業していた。寝床を整えているようだ。
部屋に入ったときに香ったものとは別のアロマの香りがする。彼の傍らに除菌消臭スプレーが置いてあるのが見えた。
「あ、あの、お風呂ほんとにありがとうございました」
背中に向かって声をかけると、彼は振り向いた。
「あ、タオルは洗濯機に放りこんでおいてもらえたら」
「はーい」
彼の口調がちょっとだけ砕けてきたことが嬉しくて、わたしもどこか妹のようなテンションになる。そういえば、さっき話していて彼が4歳上だとわかった。
「あとさ、シーツとタオルケット取り替えたから、よかったらベッド使って。ムサいけど」
「えっ、でも」
予想していた気遣いとは言え恐縮した。
「俺はソファーに寝るから」
「申し訳ないです」
譲り合っていても終わらない。こういうときはゲストが素直に甘えた方がホストを立てることにもなるというのをいつかネット記事で読んだ。
寝室の入口に立っていたわたしは、そこにもうず高く積まれた本の山に目をやった。そのてっぺんに置かれた単行本をそっと手にとる。
「あ、それ、そこそこおもしろかったっすよ。個人的な好みから言うとちょっと外れるけど」
振り向いた琴引さんがわたしの手元を見て言った。
「こういうのもレビューするんですか?」
文芸書を中心にひたすらレビューを書くのだと言っていたのを思いだしながら訊いた。
以前は書籍に限らず、映画やドラマ、飲食店やアミューズメント施設など、ノンジャンルで批評して個人ブログで細々と発信していたそうだ。
しかし文芸批評が注目されてネットに広まり、文芸ライターとしての仕事が来るようになったのだという。現在はクリエイターの支援システムがあるサイトも利用しているとのことだった。
「話題作はひと通りチェックしてるかな。時代にウケてるものを押さえておきたいし」
なるほど。わたしは感心しながら本の山の背表紙を眺めた。
「好きなの読んでいいっすよ。その山は全部レビュー済みなんで、何なら持って帰ってもいいし」
「えっ、これ全部読んでレビューしたんですか!?」
「うん」
わたしは感嘆して琴引さんを見つめた。どうということもないという表情でベッドを整え、腰に手をやっている。
こういうひとは身の回りにいなかったな、とつくづく思った。
隣人としての気配をほとんど感じたことがなかったのは、在宅時は主に読書や執筆をしているひとだからなのかもしれない。
ベッドの中は、琴引さんのにおいがした。
布団も枕もスプレーで消臭されてはいたけれど、それでも持ち主の宿したものをわたしは嗅ぎとった。
不思議なことに、まったく嫌じゃなかった。
嫌じゃないどころか――わたしは隣りの居間のソファで眠る琴引さんを思った。
このひとのこと、もっと知りたい。
暗闇の中で、iPhoneを開く。まぶしすぎるので明るさを調整する。電池残量は91%、ひと晩くらいは充電しなくても持ちそうだ。
「コトブキタイジ」で検索すると、先程聞いたサイトやブログがヒットした。過去に雑誌や新聞に掲載された記事も、あちこちに転載されている。
『待つとし聞かば』のレビュー記事を見つけて読んだ。
「近現代日本文学を専門とする教授ならではの、広い教養を思わせる一作。
タイトルにもなっている中納言行平の和歌が、全編に叙情を与えるモチーフとして生きている。
低音を効かせた重厚感のある音楽のようなずっしりとした読みごこちや、比喩等のレトリックも秀逸で、言葉そのものを味わいたい読み手に強く薦めたい。
他方、物語としては
特に終盤、詩織の言動にリアリティーが欠けているように見受けられた。自分から心の離れた相手への愛の言葉がやや上滑りしているように感じる。
著者の次回作は死をテーマにしないことを期待したいところである。」
確かな知性を感じさせるキレのある文体や絶妙にネタバレを回避した内容に、わたしは心の中で賛辞を送る。
他の記事も読み進めてゆくうちに深夜2時を過ぎ、慌ててアラームをセットして目を閉じた。
不思議な夜の高揚感で眠れそうにないと思ったけれど、琴引さんの穏やかな匂いに包まれていることを意識したとき、眠気はどろりとわたしを飲みこんだ。
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