借りる

 お互いのことを話すうち、少しずつ親密な空気が生まれた。

琴引ことびき」さんという漢字表記を知って、わたしは思わず「素敵な名字ですね」と心から言った。

 個人的な興味があって日本人の名字の種類や分布に詳しい方だと自負していたけれど、「琴引」は初めて聞いたのだ。

「俺、名乗りませんでしたっけ。最初会ったとき、階段で」

「あ……すみません、あのときすごく急いでて。でも、言われたら『コトブキ』さんかなって思ったような記憶が……」

「はは、やっぱり。一度で聞き取ってもらった記憶なんてないっすから」

 琴引さんが笑うと、なんとかという男性タレントに似ている気がした。さほど芸能人に詳しくないため、思いだせない。

 ただひとつ言えるのは、自分がこのひとの言葉や声や容姿や挙動や雰囲気――言ってみればすべてに対し、好印象を抱いているということだ。かなり、強く。

 こんなひとが隣りに住んでいたなんて。入居者の入れ替わりが多いし、アパートのわりに壁が厚いのか生活音がほとんど聞こえないので、あまり気にかけていなかった。

 でも、親切にしてもらっているというこの状況が好感度を上乗せしているのかもしれない。わたしは冷静になろうとした。

 何しろ今夜は泊めさせてもらうのだ。意識しすぎちゃいけない。


 壁に銀色のヘルメットがかけられていて、その横にある時計が深夜0時半を指している。木製の文字盤に針がむきだしになったお洒落な時計だ。

「あ、こんな時間」

 琴引さんがわたしの視線をたどるように時計を見て言った。

「ごめんなさい、明日もお仕事ですよね」

「俺はそんな遠くないから大丈夫っすよ。8時過ぎに出て余裕で間に合うんで」

「よかった。わたしも市内なんで平気です」

「自転車で通ってますよね」

「えっ」

「たまに見かけるんで」

 そうだったのか。わたしのことを隣人だと認識していたのか。これまでの自分の周囲への無関心さを思った。


 琴引さんは先にお風呂を使った。

 もし先に勧められたら遠慮するつもりだったので少しほっとしつつ、コンビニにスキンケア化粧品を買いに行かなきゃ、と思ったところで美冬がくれたコスメのサンプルの存在を思いだした。

 鞄から取りだしてみると、基礎化粧品からメイクアップまでひととおりそろっている。美冬、グッジョブ。

 持ち歩いているメイク直し用ポーチもあるし、朝のメイクは事足りる。

 明日は早く起きて洗面所を借りよう――そこまで考えて、はっとした。

 わたしはいったいどこまでお世話になるつもりなのだろう。あまりにも図々しくないだろうか。

 朝食のお気遣いをさせる前に出たほうがいいだろうか。


 お風呂から上がった琴引さんは、部屋着に着替え、首にタオルをかけていた。

 シャンプーやボディーソープの香りがする。ますますどきどきしながら、差しだされたバスタオルとスポーツタオルを受けとった。

「比較的新しいやつなんで、それ」

 よその家の柔軟剤のにおいが鼻をくすぐる。ぎくしゃくとお礼を述べた。

「一回お湯抜いて入れ直してあるんで、よかったら温まってください」

「えっ、そんな……悪いです」

「全然。シャンプーとかも適当に使ってください」

 スマートな気遣いに感謝して、自宅と同じ間取りの脱衣所を使う。

 もし――下着を脱ぎながら考えた。もし今このレールカーテンが開けられて、彼が入ってきたらきっと、抵抗もできない。

 なんて無防備で隙だらけなのだろう。

 それでも、琴引さんはそういうひとじゃないと本能的にわかっていた。

 初めて口をきいたひとを絶対的に信頼するなんて非常識かもしれない。それでもわたしは自分の直感と琴引さんを信じた。

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